JSの設定

2011年9月25日日曜日

非現実の楽しさ

社会人になってゲームをする時間がめっきり減ったけど、ゲームして何になるって思うようになったら寂しいよなと思う。
どんな非現実的なことに価値を見出すにしてもそれは現実的な身体に立脚するわけだから現実をケアしないわけにいかないが、例えばお互いよく知ってる小説の細かい内容について(はたから見ればマニアックな)話をしている時の楽しさを想像してみよう。その楽しさには明らかに、共有の楽しさ以外に非現実の楽しさが含まれる。

自分の考え方に明快なオリジナリティを求める限り、非現実に思いを馳せない手はない。オリジナリティという言葉だと控えめ過ぎるかもしれない、はっきり言えば精神的自由のことだ。我々はたまたまこの時代に生まれた。このあたりを支配する物理法則や文化的背景や育ってきた家庭環境が、一人一人の考え方を強く制限づける。もし生きるためにどうすればいいかだけ考えようとすれば、もともと似たような制限を受けている我々の考え方はさらに似通ったものになる。だからコミュニケーションが可能なのだとも言えるし、だから大して自由なんかないのだとも言える。

自由はオリジナリティに関係がある。なんでかというと、自由に考えた2人が同じことを思い浮かべる可能性は低いから。また自由は非現実に関係がある。現実はただ1つしかないので、自由に考えた世界が現実に帰着する可能性は低いから。なのでオリジナリティは非現実と関係がある。

自由を求めて非現実な世界に入る人の多くは、その世界の出来事について誰かと話をしたいという矛盾したことを考えている。その世界が日常的な感覚から乖離した自由な世界であればあるほど、日常会話は使えなくなるというのに。囲碁では石が呼吸する、陣をとる、死ぬ、生きるなどの日常会話もどきが出てくるが、これは非現実世界で現実的な言葉を使ったコミュニケーションをしたいという要求に「比喩」を使って答えた一つの例である。いやこの言い方は正しくなくて、そもそも囲碁というゲームの原型を作るときにその作者が自由すぎる発想をしなかったから比喩が使いやすい世界になったのだろう。

物理学が一般的に理解しにくい理由はこの逆だ。話を簡単にするために神様を登場させるが、神様はこの世界(を構成する物理法則)を作るときに自由すぎる発想をしたから比喩が効かないのだ。いやひょっとしたら神様は前に似たような世界を作ったことがあって、神様にとってはその世界の言葉でこの世界のルールを喩えることができるのかもしれないが。それにしたってその比喩は、(神様が一人である限り)誰かとコミュニケーションするために利用することはできない。

我々はある意味で、自由を求めて孤独な神様になりたい。よくできた、オリジナリティある世界を作りたい。でも一方でその世界に誰かを連れていきたい、もしくは誰かが作った共感できる世界に連れて行ってもらいたい。しかも2人では寂しい、なるべくたくさん。孤独になりたいのかなりたくないのか、よく分からない。

非現実世界でコミュニケーションをするとそもそも何が満足なのか考えてみたい。この場合のコミュニケーションは生活のために必須なものではないので、それが満たされないからといって現実的に困ることはないはずだ。単に基本的欲求が非現実世界でも顔を出すだけなら、それは比喩と同様に「自由すぎる世界を理解するための」便利な道具に過ぎない。でも、ひょっとしたらそうなのか。人間は後天的に世界のことを理解する。狼に育てられた少女の話じゃないが、コミュニケーションの相手が変われば世界に対する理解も変わるだろう。

懐中電灯がないと見えない洞窟があり、光の種類によって浮かび上がってくる像がまるで違って見えるなら、洞窟のあり方は懐中電灯がなければ規定することができない。繰り返しになるが、お互いよく知ってる小説の細かい内容について話をしている時の楽しさには非現実の楽しさが含まれる。非現実の楽しさについて考えてしまうのは、現代には洞窟らしきものがなくなってしまったからかもしれない。現実が誰も知らない洞窟だらけなら、そこへ懐中電灯を連れて探検にいけばいいだけだ。

自由とは要は探検ができる、その地のことが分かる、そこで暮らせるということなのかもしれない。だとしたら我々は別に、矛盾する欲求を持っていたわけじゃなさそうだ。小さい頃、友達を誘って秘密の基地に出かけた。裏山の、周囲から視界を遮られた窪地みたいな場所で、「秘密」だから自分たち以外の人には来てほしくなかった。ある程度孤独になって秘密の世界を楽しみたかったのだ。もし秘密基地を独り占めすれば、秘密の量がぐっと減ってしまう。なぜなら、その場所で友達と遊んだその体験も秘密に含まれるからだ。

探検は、ある程度秘密で行われなければならない。みんなでドヤドヤ出かける探検隊など見たことがないが、ある程度メンバーが多い探検隊は存在するだろう。作ろうとする非現実の「現実からの乖離度」は、どんなメンバーを自分の探検隊に加えたいかによって決定することになる(現実と大きく異なる世界の出来事を言い表す言葉は現実の言い回しとだいぶ異なっており、それらの語彙を自在に使いこなせる人は少なくなる)。まぁ基本的には、自分が楽しめる非現実を作っておけば気の合う仲間が寄ってくるんじゃないだろうか。

2011年8月5日金曜日

元カノの主張

僕の意外な一面を見たときに、元カノが「目からウロコ」と言ったので「それ使い方ちがうよ」と言ったのだが、「意外で勉強になった時いうんなら合ってるやん」と言われうまく切り返すことができなかった。
なんだろう・・・合ってないと思うんだけど実は合ってるのか?(ーー;

しらべてみた。
目からうろこが落ちるとは、何かがきっかけとなり、急に視野が開けて、物事の実態が理解できるようになることのたとえ。

キリストの奇跡により盲目の男の目が見えるようになったという、新約聖書『使徒行伝』第九章の「直ちに彼の目より鱗のごときもの落ちて見ることを得」から生まれた言葉である。

本来は、誤りを悟り迷いから覚める意味で使われていた

そうか。なんか違うと思ったのは、原義のほうで考えていたからか。目からウロコ。

2011年7月30日土曜日

電子書籍でプロジェクトXを読もう

最近ギャラクシータブが手に馴染んでしかたない。
端末の品質としてはiPadのほうがやっぱり高いけど、いつも持っていられる重さだしプリペイドSIMが使えるのとBookストア2Dfactoがかなり充実してきているのも大きい。電子書籍を常に携帯することは、非wifi環境で充実したオフライン作業のために時間を使ういい方法だ。そういう工夫をしないと1GBのSIMなんてすぐ使いきってしまう(何よりオンライン依存になってしまう、電脳コイルの子供たちのように)。

ドコモの電子書籍ラインナップの中にプロジェクトXがある。それぞれ短編だが1冊100円で、テレビで見るよりじっくり楽しめる。今まで読んだのをリストアップしてみよう。
- 赤いメロン 〜北の大地の20年戦争
- 宇宙ロマンすばる 〜140億光年 世界一の望遠鏡
- 大阪万博 史上最大の警備作戦
- 兄弟10人 海の革命劇 〜魚群探知機、ドンビリ船の奇跡
- 決戦 人類最強の敵 〜日本人リーダー 天然痘と戦う
- 厳冬 黒四ダムに挑む
- 撃墜予告 テヘラン発 最終フライトに急げ
- 首都高速 東京五輪への空中作戦
- 悲劇のルワンダ 希望の義足(読み中)
- 100万座席への苦闘 〜みどりの窓口・世界初 鉄道システム
- ロータリー47士の闘い 〜夢のエンジン誕生からルマン制覇まで

こういうのを見ていると、戦後どうして日本が急速な経済復興を遂げたのかよく分かる。1つにはそれが「復興」だったこと、もう1つは単にみんながそれぞれの持ち場でよく頑張ったこと。
後者から補足しよう。プロジェクトXという名前の通り、これらはどれもプロジェクトと呼ぶことができる。そこには数人のキーマンがいて、彼らの技術と熱意が、その行動に人を呼び寄せ次第にプロジェクトと呼べる体裁と規模を整えていく。キーマンはもともと才能と技術を持っていることもしばしばあるが、悲劇のルワンダに出てくる元法律事務所のOLのように、プロジェクト遂行に必要な知識を全くのゼロから積み上げた人もいる。

ここで前者の「復興」がキーワードになってくる。全くのゼロから積み上げるといっても、彼女は義肢を作る名人のところに弟子入りをしている。「100万座席への苦闘」の中でJR通信課の人達がゼロからプログラミングを日立の人達に学んだことだって、技術が誰かの中に存在していたからできたことだ。たとえば世界中の人から一旦すべての知識と文明を取り上げ、彼らにドサッと専門書籍だけ渡して「はい、じゃあ今から復興してください」と神様が言ったらどうなるか。きっと日本の復興とは全く違ったものになるだろう。日本の復興が急速だったのは、知識の使い方と教え方を知っている人がいたからだ。


当然ながらマネーも重要で、資金繰りに奔走するのも資金の提供者がいるからできることなんだけども、プロジェクトの意義とそれがうまくいくビジョンを説明すれば投資主体は金を出すんだから、やっぱり基本は人のようだ。形式知を重視する人にとっては、人財なしに形式知が意味をなさないことは残念かもしれないし僕もある程度それに同意する。そう思う人は、狭義の形式知を読み出す側をセットにして大きい形式知を考えたほうがいいかもしれない。形式知に力がないんじゃなく、まだ発展途上なのだと考えれば希望が湧くと思う。

2011年7月23日土曜日

新井薬師盆踊り

今日は新井薬師盆踊りに一人でぷらぷら出かけたものの人口密度が高すぎてすぐ撤退することになったが、さらにぷらぷら歩いていたらいい感じの本屋を発見して280円で2冊購入した。
「ズラータの日記」と「ドキュメント 戦争広告代理店」。
自転車を使わず歩くとこういういいことがあるのかと思った。
自転車にのってると店を見逃しやすいし、もし見つけてもいちいち止まるの面倒だもんね。

昨日は「3月のライオン」6巻の発売日だったので早速買ったらそのあと弟から「3月のライオン買ったから買うな」というメールがきた。もう遅いよという返信はしなかった。
内容は うーん じいちゃんの「ひな・・・よくやった!!」がカッコよかったというのがまず第一。
そして相変わらず先崎学のコラムは(少なくとも1回目は)読み飛ばしてしまう・・・

あとはまぁ ひなの担任みたいな駄目先生に遭遇したとき「あぁこの人は駄目な人なのか」と思えればひなみたいに鼻血出さなくて済むんだけど、小さい頃はそういう客観的判断はなかなか難しいので真正面から相手してしまって泥沼になるんだろう。話は、それが通じる人で、かつ問題となってる現実に影響を与えられる立場にいる人にする必要がある・・・ただ面倒なのは、桐山の元担当教師が言うように別の先生に話をすると駄目先生も色々防御線をはると思われること。なかなか、いかに駄目な人とはいえ1人の大人がはる防御線を崩すのは、周りの駄目じゃない人々にとっても大変なことだろう。何しろモンスターというのは恐れを知らないので結構交渉ごとに強かったりするから。そうだとすれば、監査的役割の先生がいないことか、あるいは担当の先生が1人しかいないことが学校体制の弱点なんじゃなかろうか。
などと思ったりした。

また村山聖のエピソードを知っている身としては2番煎じではあるものの、二階堂の「将棋でまで弱い人間扱いされたら、もう僕はどこで生きていったらいいんですか」
と、「カッコつけんな桐山!」にはウルっとさせられる。

後者は「本当に勝ちたいんなら、粘れ!」と続くが、この言葉の意味をちゃんと理解するには補足が必要だろう。つまり、将棋を芸術のように あるいは自分の勝負哲学の表現のように あるいは学問的探求のように考えたりすることは勝手だが、とにかくその局面で勝つために「粘る」といった学問的でも芸術的でもないことまで平等な選択肢として考えなければ読みの視野が狭くなってしまうということだ。

あるいは逆に粘ることがモットーの人がいたとすれば、常にその勝負哲学に従うことが勝利につながるわけではない。羽生みたいな抜きん出て強い人が他の棋士と比べて脱個性的なのは、1つには上述した意味での視野を目一杯広げた結果だと思われる。そして結局、狭い道一本からなる勝負哲学の実戦は傍目にカッコイイが、視野を広く持って数多くの思考パターンを経験した人の蓄積に負けてしまい、いつのまにか将棋を学問する基礎力の点でも差をつけられることになる。

カッコつけんな桐山!というのはある意味で、カッコイイことをするためには準備が必要だよ、おまえにはまだその準備が足りてないよと言ってるのと似ているように思う。

2011年7月18日月曜日

分かりやすく伝えること

大雑把にいうと世の中には2種類の人がいる。どんな難しいことでも分かりやすく伝えられると思っている人と、とても難しいことは分かりやすく伝えられないと思っている人。ちょっとそれぞれの主張を書きくだしてみよう。

前者の典型としては、例えば数学の教授に「あなたの説明は私には分からない、もっと分かりやすく説明するべきだ」とイチャモンをつける学生が考えられる。世間一般でいうところの「分かりやすい説明」とは、細かいことはどうでもいいから概要をかいつまんでするようなものを指すことが多い。しかし数学の授業で細かいことが伝えられなければ、大学の授業として価値はないだろう。

そのように思っている教授がいるとすれば、それが後者の典型だ。分かりやすい説明と正確な説明は両立しない。だから、正確な説明が求められる場面で(誰にでも)分かりやすい説明は不可能なのだと。もちろん、正確な説明をする教授が2人いてそのどちらかのほうがもう一方よりずっと分かりやすい説明をすることはある。でもそれはあくまで、ある程度分かっている人にとって分かりやすいだけのことで、誰にでも分かりやすいなんてことはない。

さて本稿では、前者も後者も「相手に歩み寄らない」という点で閉鎖的であると主張する。分かりやすい説明をさせることは、相手にかなりの精神的負担をかける。説明を受ける人間が前提知識を持っていればその負担を軽減できるのだから、説明する側にだけ分かりやすさを求めるのは怠惰で横柄な態度といえる。

一方で、どんなに難しい内容でも、正確さを犠牲にして概要を伝えることが有効な場面はあるように思う。例えば先の数学の授業でいえば、これから取りかかる章を理解するとどんな応用につながるのか、これまで学んできたどんな知識が活かされるのか、そもそも歴史上の先人たちはどんな問題意識でもってこの章で言われている内容を創り上げたのかなどを説明することは可能であり、学生に勉強する意欲を与えるだろう。

説明を求められた時、常に求められた(と思う)まさにその内容について説明しようとするのはバカ正直すぎる。相手が前提知識なしに、前提知識が必要となる内容を聞いてきたのなら、内容の周辺や関連事項を話してあげるとよい(場合によっては前提知識の齟齬を指摘すべきかもしれないが)。特に自然科学を志す人間はものごとをうまく説明できてなんぼという強迫観念があるので、説明しろといわれれば正確に説明しないと気が済まない人が多い気がするのだが、イマココにあって有効に働くのはその説明だけではないしそれどころか全く関係ないことかもしれない。

2011年7月4日月曜日

引っ越してからのこと(2)

東京に出てくると同時に買ったタワー型のPCがついにお亡くなりになった。
電源ボタンを押しても何も起きない。
もうほとんどの用はmacbookで済んでいるので大した痛手ではないのだが7.1chサラウンド出力ができるサウンドボードが役立たずになってしまった。今まで映画のDVDを再生する時なんかはPC経由でサラウンドをエミュレーションしていたが今日電脳コイル2、3を見るにあたりmacbookで再生してみるとやはり迫力はだいぶしょぼい。

数カ月前、念の為に買っておいたiPadコネクションキットのことを思い出し、macで映画を再生してそれをstreamToMeとserveToMeを使ってiPadに飛ばし、コネクションキット+コンポジットケーブルでテレビに映す方法を試すことにした。しかしどうも、mac上の動画ファイルを再生するならこれでいいが、DVD再生をダイレクトで飛ばす方法がよく分からない。でもまぁ、iPadで再生中のyoutubeをテレビに出力できたので収穫はあった。
※iPadをAirPlayレシーバにする方法はあるのかな?
※持ってるもの大事にプロジェクトの最中なのでmacをテレビにつなぐケーブルを買うのはナシ

それはいいとして今日は前回の続きで映画の感想を。
映画って、感想を書くのが難しいと思う。本は文字ばっか書いてあるので感想を言うときには登場する文章を語彙として使えるが、映画はセリフやストーリーだけでなく映像が大きなウエイトをしめるのでそれを文章化するのに苦労するし、必ずしも展開のスピードに自分の理解スピードが追いつかない。

例えばアンダルシアを見ていてよく分からないところがあってしばらく考えてみるもののやっぱりよく分からないのできっと現段階では材料が足りないのだろうと思って考えるのをやめるが、感想の取っ掛かりは実はその考えの中にあることが多い。しかし取っ掛かりになりうる複数のそうした考えはことごとく途中でキャンセルされている(映画の最中にメモをとるわけにもいかないし!)ので、映画が終わった後に残るのは体験がらみではなく結論がらみのものばかりになってしまう。

とはいえそのことが分かっていれば、体験がらみのものはなかったかと疑うことは出来る。この映画を楽しむポイントは、女神の報復という副題を忘れることだ。実際、他人に心を開くことなんか滅多にない黒田康作が新藤結花(黒木メイサ)の境遇に(少なくとも見かけ上は)同情して必死に守ってあげようとする様を見ている時には多くの人が副題を忘れただろう。間違いなく最大の見所の1つと思う。それだけにこの後の展開は相当せつない。前作アマルフィでは(純粋なハッピーエンドではないものの)一件落着!という気持ちになって終わったが、今回のはとても一件落着しない。

さっきカッコで(少なくとも見かけ上は)と書いたが、本当に同情が見かけ上のものだったとしたら人間不信の黒田康作に同情せずにはいられないし、逆にそうでなかったとしても同情せずにいられない。前者の仮定から結果を見ればやっぱり黒田は優秀ですごい!ということになるのだが、ちょっと人間味に欠けすぎている。なので個人的には後者の仮定で、人間的なミスにより一旦不利な状況になったものの鬼のような精神力で素早くリカバーした、と考えることにしたい。どっちが作意であるかは別にどうでもいいことだが、いずれにせよ同情せずにいられないのだから切ない作品であることにかわりはない。

2011年7月3日日曜日

引越してからのこと

4月に中野に引っ越してからもう3ヶ月たつ。
区が変わることによって引越し前に契約していたCATVの解約を余儀なくされたため、
この際しばらくの間すべての情報受信・発信を絶ってみようと思い
新聞を斜め読みするほかはツイッターさえほとんど見なかった。
先週やっと光テレビのチューナーが届き、ルーターにつないだら「あなたのルーターはIPv6に対応してません」ということで使えず、しょうがないからフレッツ光のターミナルを今日買ってきたハブ経由でチューナーとルーターにつないだ。ハブはIP層とは関係ないからIPv6に対応とか非対応とか関係ないのだ。それにしても出費がかさむ。
まぁそんなわけで、情報断ちは終了します。

情報断ちの間何をしてたのかというと本を読んだりNHKオンデマンドをみたりmongodbをいじったり。
ちょっと列挙してみよう。ひとつ注意しておくと、情報断ちは知識断ちではない。
本:
 格差社会論はウソである 増田悦佐
 デイヴィドソン「言語なんて存在するのだろうか」森本浩一
 humanities法学 中山竜一
 スカイ・クロラ 森 博嗣
 CODA入門 鶴田展之
 Ruby技術者認定試験公式ガイド
電子書籍:
 歌うクジラ 村上龍
 宇宙ロマンすばる プロジェクトX制作班
 震度0 横山秀夫
 大地の子1〜4 山崎豊子
 星守る犬 村上たかし
Wii:
 影の塔
DVD・映画・NHKオンデマンド:
 スラムドッグ・ミリオネア
 チェンジリング
 孤高のメス
 ALWAYS 三丁目の夕日
 ハゲタカ(ドラマ全部)
 南極料理人
 電脳コイル(1だけ)
 アンダルシア女神の報復(今日みてきた)

軽く感想を述べてみる。まず「格差社会論はウソである」は資料の参照量がものすごく、日本の良さに対する素直な分析に好感が持てる。デイヴィドソンは何となくどんな人なのか知りたくて買った。副題が「言語なんて存在するのだろうか」となっている通り、彼は「我々が、共通の意味を持った言語を話す主体であるからコミュニケーションは成立するのではない」と主張しているようで、ある意味当たり前のように思う。言語が存在しないというのは、共通の意味を持った言語なんて存在しないという意味だ。意味は、それが相手に通じたと分かったときに見いだせるものであって、口にしたその言語が初めから意味を持っているのではない。なぜなら、持っているなら解釈する必要がないから。話す人によって、またそれを受け取る人によって様々な解釈の可能性があるのは、言葉が初めから特定の意味を持っていないことの証拠であると。

humanities法学は法哲学の本。◯◯って何だと思って本を読もうと思ったらまず◯◯史を知ることから始めるとよい、と個人的に思っている。◯◯には法律、数学、いろんなものが入る。印象に残っているのは、正義という言葉には2つの意味があるということ。法律の分野でいうところの正義は、一般的に言われるところの正義ほど曖昧な言葉ではないようだ。

スカイ・クロラは映画を寝ながら見たことがあった。初めのほうは、なーんか適当に書いているなと思って読んでいたが進むうちにキルドレと彼らが置かれた世界背景に感情移入していくのを覚えた。空中戦も、映画で見るよりむしろ文章のほうが凄みがある。知らない言葉を調べたくなった。

CODA入門は、なんかMacのいい開発用エディタないかなと思って高田馬場の本屋をぶらついて発見した。作者は仕事でお世話になってる人だったし、textmateの本がないのも手伝ってこれに決めた。
マイコミジャーナルの読者がどれくらい各記事をスクロールしているか解析するプログラムをRails3とmongodbの組み合わせで作成するのに使っている。色分けやメソッド補完などの基本機能に加えてターミナル・subversion・sftpを1ウィンドウで使うことができ非常に軽量。もう少し安いといい。

Ruby技術者認定試験公式ガイドは、引越しをキッカケに始めた「持ってるものを最大限利用しようプロジェクト」という個人的プロジェクトの一環で購入。なんというか、引越しで金がどんどん出て行くとそれが定常状態のような錯覚に陥り、スマートフォンとか使えるものまで買い換えたくなるので例えばソフトバンクとの契約を解約したiPhoneだってアプリ開発や音楽・ポッドキャストを聞くのに役立てよう。ということから始まり、「持ってるもの」は形あるものだけとは限らんよなということでrubyにまで拡張された。会社で、2ヶ月とか3ヶ月で何かしら技術を磨くのを各自宣言するための合宿といううざい企画があるのだがそれにはこの個人的プロジェクトを適用して終りだ。

電子書籍のほうはなんせ大地の子が大作なのでこれだけ感想をいう。
bookストア2Dfactoで買った本をギャラクシータブで読んでみたいと思って軽く1つ買ってみたら見事にハマってしまい時間を惜しんで一気に読みきった。3巻セットと思っていたら4巻セットであり、本だと1つ1つ厚みがあって尻込みするが電子書籍だと1ページ1ページ繰っていくだけなのでいつの間にか読み終わる。長時間ギャラクシータブに触れていたことで愛着も湧き、持ってるものプロジェクトに沿う。

さて本の内容は、満州開拓団として中国に行った日本人家族が敗戦濃厚の余波をうけ政府に見捨てられ、父と息子・その妹だけ生き残るが父は南方戦線に連れて行かれ(その後敗戦となり一人日本にとりのこされる)息子と妹はそれぞれ別の中国農民に買われていく。息子が主人公で、出自が日本人であることが文化大革命のため汚点となり続け、なんのかんのと辛酸の限りをなめつくし大人になっていくが、文化大革命の終了により転機を迎える。革命は中国の国力を恐ろしく衰退させていたので、政府は故・毛沢東の「鉄をもって要となす」の言葉どおり最新鋭の製鉄所を日本の技術協力を得て建設していく、そこで技術者でもあり日本語もできる息子が活躍・・・でクライマックスへとつながっていく。

クライマックスには2つの側面があるがネタバレ効果の薄い一方を言うことにすると、最新鋭の製鉄所を日中合作で建設していく過程がすごい。適地調査・選定から始まって価格・技術交渉、反日感情、国家の力で押してくる中国、主席・副主席の政争により遅れる工期、それによる日本側関連企業の打撃、原料調達のトラブル、エンジニアリングに対する思想の違い、そういうのを乗り越えて大プロジェクトがついに完成した時やっと生まれる日中関係者一同の一体感が、過程の描写が非常に詳細なことで浮き彫りにされている。あとがきを読むと山崎豊子が取材に苦労した様子が書かれていて、さもあろうと思う。

もう一方のクライマックスは本書の題名に関わることだが、可哀想だなと思いつつも現実的にはそうなるだろう。まさにドラマな人生を、歴史背景と結びつけて濃密に描いた大作。これを読んだあとにハゲタカを見ると薄っぺらくて仕方がない。

2011年3月27日日曜日

NHK杯決勝など

来月引越しのため今日はケーブルテレビのチューナー撤去だったが、将棋のNHK杯決勝を見るため業者に来てもらうのは午後にした。ほんとは囲碁も決勝を見たかったけれども、えらく遅い時間から開始されたため間に合わず。

2年連続のカードだが去年とは先後が逆で▲羽生-▽糸谷。糸谷が1手損角換わりを選択して、後手番ながら73銀-64銀の急戦。糸谷は相変わらず着手が早いが、羽生が8筋の歩を切らせる代わりに65歩と銀を追い返して持久戦調になると、糸谷が細かく時間を使う展開になった。持ち時間が羽生>糸谷となってからはついに終局までこの大小関係が逆転することはなかった、これは珍しい!

羽生がさらに玉頭を厚くするべく▲77桂と跳ねた直後の▽42飛車から62金が恐らくいい構想、左辺の圧力を躱して先手の弱点である右辺からの攻撃を狙う。77桂は先手玉が相当弱体化するので、攻め合いになったとき先手危ないのではと思って見ていた。理想だけ言えば77桂では先に79玉とできればいいが、すると後手も42飛車としなかっただろうから別の将棋になりそうだ。

羽生は46銀を55〜66と移動させて攻防の37角を打つ。▽35歩は当然、以下先手は解説・森内好みの73角成ではなく46の位置で角を取らせる間に金銀を取り、53銀・56金・26金と執拗に飛車を攻める。これで飛車交換になればやはり先手玉が薄いのではないか・・・▽37とに当てられている▲28飛車を67まで逃げまわるのは非常にやりづらいと思ったが実戦はそうなった。

このあたり、糸谷は相変わらず時間を細かく使っているので読み筋通り進んでいたとは思えない。▽36と、と粘りに出たあとの手順はもうカオスすぎてよく分からないが、矢内さん指摘の▲46桂が入って先手分かりやすくなったのではないかと思った。それでも糸谷の59角はすごい、攻め3.5守り6.5といった感じの手で彼の柔軟性をよく表している。

感想戦では珍しく糸谷が気圧されているように感じた。どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?を読んですぐだから余計そうなのかもしれないが、糸谷のような、滅法強いのに新しいタイプを相手にしてこれだけ平然と指せるのは、やはり化け物としか言いようがない。いくら羽生に経験があるといっても、糸谷の側から見ればいくらでも研究材料があるのであり、早指しのNHK杯は年齢的にも糸谷に利するところがあるだろう。こんな結果をあと数年も許しておくわけにはいかないはずなので、巻き返しに期待したい。

2011年3月22日火曜日

都心における東日本大震災、その微妙な平和ぶり(2)

週明けの3/14(月)は今思うとホワイトデーだがそんなこともちろん忘れていた。
通常業務だというので出社したが予想通り仕事にならず、意味のない日に終わった。

ところで3月末は僕が住んでいる賃貸マンションの更新があり、それに合わせて今の狭い物件から、家賃が安くて部屋が広い近場の物件に引っ越す予定であった。3/22(火)に引越し業者を呼んでいたが、余震は多いし原発の情報は手薄だし食料品は買い占められている、周りの人や実家にいる親もやたらと不安そうにしているので急遽3週間ほど延期し、引越しのためにとっていた1週間ほどの休暇を3/15から取得することにした。

3/15,16は東京で情報収集に明け暮れた。原発で制御系統が海水をかぶり、あれだけの爆発があったのでは、運転停止や炉の封じ込めには成功していると見られるとか言われても全く信用できない。巨大余震が原発付近で起こることも考えられる。もっと情報がでてくるまでとりあえず原発は発電能力が同じであれば全部同じ被害を与えうる(仮定1)と見なし、最悪の事態を想定することにする。こんなのは影響力のある人が発言すべきことではないが、関東圏に住む一般市民としては当然こう考えるところ。

テレビの報道番組によると今回の事故はスリーマイル島原子力発電所事故と似ているらしい(仮定2)。
「1989年の調査で圧力容器に亀裂が入っている事が判明し、異常事態が更に長引いていたならば、チェルノブイリ原子力発電所事故と同様の規模になっていた(仮定3)と言われている。」
仮定1・2・3より「チェルノブイリより発電能力の高い福島原発はチェルノブイリと同等以上の事故につながりうる」ことになる。

※もちろん後になってみれば・・・または、十分な情報(知識も含む)を持つ人にとって仮定1は誤りである。現代の原発は過去の事故を踏まえ、非常に安全な作りになっている。仮定2も何がどのように似ているのか定かではないし、仮定3も何故そのように言われているのかよく分からない。とはいえ、仮定しか与えられていない状況では手持ちの材料で推論するより仕方がない。

チェルノブイリ事故では結局のところ、半径300kmの範囲が(放射線管理区域に指定しなければいけないほどの)放射能汚染を受けた。東京は福島原発から300km範囲内にすっぽり入るので、これから先の情報変化によっては安全地帯ではない。引越しを延期し実家がある兵庫県に帰ったのはそのような判断もあった。実際のところ、16日の早い時点ではまだ引越しを延期するかどうか迷っていたが、こんなとき慎重にならなくていつ慎重になるのだろうという気になり、17日午前に不動産業者や引越し業者に電話を入れ延期の手続きをとった。そして同日夕方、新幹線で兵庫へ。

実家に帰ると特に母親は安心したようであった。15,16日はテレビを見ていて時間が長く感じたと言っていた。僕もそのように感じていたので、親はなおさらだろう。休暇だからといってどこかへ出かけるでもなく、新聞を読んだりツイッターを見たりした。ちなみに関西ではニュースの時間以外、民放では普通の番組をやっていてあまり震災の様子や停電の情報、原発の情報がリアルタイムに入ってこない。だから比較的整理された情報をほどよいインターバルで受け取ることができ、精神的プレッシャーはだいぶ軽減された。アメリカが80kmを避難線としたのにも安心した。

もちろん震災のほうも心配だが、僕にできることは募金くらいしかない。ちょうど、実家の家族が昔からお世話になっている牧師さんが滋賀県のほうに転勤(?)になるというので、3/20(日)ご挨拶がてらミサに行ってきた。震災の募金箱があったので募金し、牧師さんの(震災について何事か語っているのだが比喩が難しくてよく分からない)説教を聞いたり賛美歌を歌ったりした。

終わり際、牧師さんに「久しぶりの方に来ていただいてます」と急に東京の様子を尋ねられ、都心の微妙な平和ぶりを手短に話した。母は「何かしゃべらされると思ったけど先に言われるのもイヤかと思って言わなかった」と言っていた。まぁその通りではあるのだが。ほかにも、別に話をふられてもいないのに何人かが適当に話をしてお開きとなった。田舎のミサらしい感じがして何だか和む。

都心の微妙な平和ぶり・・・今回の感想として、都心では皆かなり冷静であった(買い占めという不可解な出来事はあったものの)。しかしあまり、情報を個々人が求めていく感じがしないところに少し心配を覚える。自分自身を含め、関係者が被災しているような場合には体が自然と動くだろう。でも都心において、地震の被害が結果的に軽微だったからといって、計画停電の区域から外れているからといって、原発から遠くはなれているからといって、いつもと同じことを粛々と続けている人々を見ていると、彼らは一体いつ(身体的反射以外の)行為を計画し決断するのだろうと疑ってしまう。

すぐに逃げろとは言わないが、せめて情報が少なく余震確率が高いうちは活動を控えるべきであるし、企業の経営者は社員に活動を控えさせるべきである。今回の件でよく分かったが、震災の影響を大して受けていない都心企業の経営者が何も決断せず通常勤務を言い渡した場合に社員が単独で決断をすると、そいつは「他の社員が頑張っているのに真っ先に逃げる無責任者」ということになるらしい。正常性バイアスで目が曇っているとしか思えない。

アメリカが原発事故から数日もたたないうちに廃炉を前提とした技術援助を日本に申し入れたという話がある。東電が「自分のところでできるから」と言ったから、という理由で政府はその提案を断った(もしくは保留した)らしい。しかしながら3/22現在の情報によれば、損傷のない5号機と6号機までもが(地元の住民感情を考えれば)廃炉やむなしという見解のようだ。何だかチグハグなように思われる。5・6号機が廃炉なら第2原発も廃炉ではないのか。

個人的な話に戻るけれど、マンションの契約更新をしたので引越しをするモチベーションはいくらか減ってしまった。それでも引越しはしたいと思う。選択や行動をするのに多くの重要な理由を求めてしまうと、やはり人間の行動力というのは徐々に落ちていってしまうだろうから。

都心における東日本大震災、その微妙な平和ぶり(1)

2011/3/11金曜日、東日本大震災があった。
僕がつとめる毎日新聞社ビルでも震度5強の揺れがあり、
天井が落ちたり本が雑誌がぎっしり詰まった僕の席の隣の棚が倒れてきたりした。
近くの九段会館でも天井が落ち、そちらでは運の悪いことに1名お亡くなりになったらしい。

マグニチュード8.8という情報はすぐ入ってきたから、普通に考えて週明けは自宅待機だろう。
なぜなら強い余震がさらに近い場所で起こることがありえ、また天井が落ちるなどの予測不能事態がありえ、
すると九段会館同様の事故がありえるから。1日弱たってから分かったことだが原発(電力)の問題もある。
しかし残念ながら会社に危機意識がなく、この予想は覆された。

3/11地震後は近くの公園に避難指示。その後に帰宅許可がでたので帰ろうとしたが電車が動かない。
会社に戻って行く人も多かったが、電車が長く動かないことも考えられるので
ひと駅ずつ西(帰宅方向)に歩きながら電車の状況(や震災の影響)を確認することに。
とりあえず上司(運のいいことに休み中)に電話をかけるがつながらない。

竹橋から九段下に向かう途中、腰を落ち着けてギャラタブ(スマートフォン)で情報を見るために
プロントなど喫茶店を見て回るが営業を中止しているか持ち帰りのみとなっている所が多かった。
九段下の地下鉄入り口をひとめ見ると大勢の人がたむろしており、まだ電車が動いてないことが分かる。
小諸そばならやっているだろうということで別に食べたくもないがそばを食べた。
こんなに混んでいる小諸そばは初めてだ。

ギャラタブで情報を確認していると、隣に座っていた中国人のおばさんが片言の日本語で話しかけてきた。
中国人はいつも気さくなのかもしれないが、災害時だし既に共通の話題が約束されているから
余計話しかけやすいのだろう。小諸そばは口に合わなかったのか、そばもご飯も大量に残っていた。
ご飯がついているところから見てお腹じたいは減っていたと思われる。
小諸ファンとしては遺憾である。

外を見てもたむろの人々が動き出す気配はないので飯田橋に向かう。
しかし間違えて市ヶ谷方面に歩いてしまい時間を大幅ロス。
東西線の線路沿いに歩いていけば家には着くはずなのだが地下鉄なので線路が見えない。
総武線が動いていればそれで帰れると思ったが動いていなさそうだ。しぶしぶ元の道を戻る。

飯田橋についたのは18時くらいだったか。もうだいぶ暗くなり、外はかなり寒い。
バス停に長蛇の列。たしかに、これに乗れたら高田馬場まで帰れる・・・
でもこんな寒いところで待つ気しないよ。と思いつつも一旦はなまるうどんに退避し、
出てきた時に列が短くなっていれば待ってみようかなと思った。

はなまるうどんのうどんは美味しくて元気がでた。
情報収集も完了し、JRが早々に本日中の運転再開を断念したことを知る。
バス停の列は全く短くなっていない、むしろ伸びている。
しかし往生際わるく、都営大江戸線の様子を見に行ってみることに。

飯田橋の都営大江戸線ホームには初めて行ったが、遠かった。二度と使わないだろう。
結局動いておらず、飯田橋を後にして神楽坂に向かう。
地下鉄ではあんなに近い飯田橋 - 神楽坂間がこんなに時間かかるとは・・・
牛込神楽坂に心を惑わされつつ何とか神楽坂を通り過ぎ、休まず早稲田へ。
どこまで行っても歩いて帰る人達がたくさんいた。

そばとうどんで腹は一杯なものの寒さで限界が訪れ、早稲田のカフェで一服。
20時15分くらいに入ったが、20時半閉店と言われた。
コーヒーを飲んで情報収集している時、グループ会社の知人から電話が。
新宿オフィスがエレベーター動かなくて、23階に来客があった彼女は客を送るため1階まで往復したのだと言う。ふーむ。

もっと高い建物にいる人は大変だったろうな。
東京タワーを外から見ていた人の話じゃ、地震のとき「たわわ、たわわ」と揺れていたそうだ。
そんなこんなで21時ごろ自宅についた。
地震直後にも電話したが、再び実家にPHSで連絡をいれる。
今回の地震では各社携帯がつながりにくい中、PHSとツイッターは非常に役に立ってくれた。

結構しんどかったが、歩いて帰れるのは有り難いことだ。テレビを見ながら、そう思った。

2011年2月20日日曜日

Developers Summit 2011

2011/2/17,18 目黒雅叙園で行われたDevelopers Summit 2011のまとめ。

17日に見たもの。
【17-A-1】
Mobile Future Conference開会のご挨拶/ 世界へ挑むDeNAの「X-border」「X-device」戦略
南場智子 氏 / 守安功 氏

南場さんの、TO氏(怪盗ロワイヤルの作者)に関する話が面白かった。
話を聞く限りTO氏はあまりエンジニア然とした人ではなさそう(営業から転向した)だが、
南場さんが評価する3ポイントであるところの「能力」「意欲」「実績」のうち特に2番目と、何がなんでもやり遂げようとする根性が抜きん出ているという。
そういうタイプの人がどのように会社に影響を与え、また管理する側がどのようにそういう人を扱うかに関する興味深い例。

守安氏の話は、DeNAが比較的最近買収したngmocoという会社が開発したX-Platformゲームエンジン「ngcore」に関するもの。

【17-E-3】
Hadoop:黄色い象使いへの道 ~「Hadoop徹底入門」より~
下垣徹 氏

一番才気を感じさせるスピーチでしたで賞をあげるとしたらこの人。
短い時間に盛りだくさんの内容で、比喩をうまく使いながらHadoopの全体像と「Hadoop徹底入門」の構成、ページ数の関係で盛り込めなかったところなどを説明していく。

【17-A-4】
大規模Webサービスのためのデータベース技術の現在・未来
松信嘉範 氏

大規模Webサービスのボトルネックであるマルチスレーブへのレプリケーションを、PCI-ExpressのSSD採用によるIOPSアップにより解決すると今度はボトルネックがマスタやCPUやネットワークに移っていって・・・というようなお話。ザ・エンジニア!という感じでスピーチも上手。

【17-E-5】
Cassandraで見るNoSQL
小林隆 氏

NoSQLはNot only SQL。RDBMSよりNoSQLというんじゃなく住み分けが大事だと。
よく「重要」を「でかい」と表現していた。

【17-A-6】
Smartphone X-Platform 開発
近藤和弘 氏 / 上条晃宏 氏 / 増井雄一郎 氏

web+db press #61 2/24発売!titanium特集。
いくつかの描画エンジンによるフレームレートと描画オブジェクト数のグラフが印象的。
js+canvasは現段階では非常に遅い、objectiveCのようなnativeは非常に早いがdevice依存。
中間の策としてtitanium mobile。ある程度までなら十分なフレームレートでX-device、またjsで書ける。

18日に見たもの。
【18-A-1】
ハッカー中心の企業文化を日本に根付かせる
よしおかひろたか 氏

Linuxカーネル読書会などで有名な人(という話を聞いた)。
メモから引用:
統制の種類には功利的、強制的、規範的なものがある。
『超マシン誕生』『洗脳的マネジメント』
許可を求めるな、謝罪せよ。

ハッカーは「自ら行動する人」であり、行動はプログラミングだけとは限らないと。
シリコンバレー感たっぷりのスピーチ。

【18-A-2】
次世代ジオロケーションサービスの開発手法
佐藤伸介 氏

Yahoo! Open Local Platformの話。A-1が面白すぎたのであまり印象に残っていない。

【18-A-3】
スマートフォン向けソーシャルアプリケーション開発の現在
伊藤直也 氏

ほんとは「SilverlightとAzureで魅せる未来」を見る予定だったんだけど
rakuten_saitama(twitter)がこっち見る1手でしょと言うのでついていった。
なんかこのへんからメモが適当になっているが・・・
taglet NFC共有 OpenFeint unity(jsだけじゃなくC#も使えるとな)

【18-A-4】
ウェブアプリケーション関連技術5年間の変遷とこれからのはなし
藤本真樹 氏

5年前はGreeではこんなハード・スペックでこんなバージョンのミドルウェア・言語・フレームワークを使っていたよ・・・こうしてみると思ったより進歩してないね。という感じの話。
資料をみて復習しないと思い出せない。

【18-A-5】
前例のないソフトウェアを作る! コミPo!開発秘話
小野知之 氏 / 田中圭一 氏

休憩時間から「コミポコミポ」という歌が無限リピートされていて、気分転換ぐらいのつもりでいたがかなり面白かった!田中圭一さんというのは漫画家で、ふだん絵を描かない人がカンタンにマンガを(ビジネス用途まで想定してるようだ)作れるようなソフトがほしいということで、ウェブテクノロジさんと一緒になって要件定義をしたりモックアップの作成をしたらしい。ウェブテクノロジさんといえば減色エンジンや携帯向け画像変換ツールを開発しているところ。これはちょっと、記憶に残ったよ。

【18-B-6】
Chrome、Chrome OSとChrome Web Store
北村英志 氏 / 及川卓也 氏

及川氏にベストスピーチ賞をあげたい。何回も話しているので早口になってしまう・・・と本人が言っていたので、慣れてるってことなんだろうけどね。さて、Chrome OSの思想は分かるんだけども、あれがほしいかと言われると躊躇してしまう。確かに今のwindows pcは、不要といって差し支えないくらいたくさんの機能がゴテゴテしているが、ではChrome OS搭載PCが進化していった先にはどんな便利なPCがあると、彼らは思い描いているんだろう?その説明があったほうがいいと思った。

ヒトの繁栄について

もし人類が未来永劫に渡って絶滅しないことが保証されていたとしたら。

例えば仮に人間個人が、グーグルのBig-Table上の単一オブジェクトみたいな存在になり、しかもそのインフラが宇宙の隅々まで行き渡っており、別の宇宙にある同様のインフラと通信・同期することすら可能であるとすれば、だいたい「絶滅しない条件」が整っていると言えるだろう。というかそういうことにしよう。そうなった時、 ーもはや彼らは人間と呼べない感じになってしまっているので、仮想人間と呼ぼうー 仮想人類は「何のためにここまで増えたのか?」と思わないだろうか?

ここで、仮想人類は何人の独立した仮想個人から構成されるのがベストか?という問題を考える
{*「独立した」というのは、分散データ(バックアップ)を含まないという意味。「仮想人類」は、仮想人間の一人一人(仮想個人)から成る集団のこと }。
素朴な言葉で言えば、世界が100人の村であるのと、数億の国の集合であるのとではどちらがいいか?ということである。

なぜ増える必要があるのか?この疑問に対する冷静な回答の一つは、「全体として増えるのは単なる結果であって、個別の生殖活動が行われる動機は、個人的とさえ言えるほど小さい理由である」というものだろう。そうだとすれば、人類は何も考えずにその規模を拡大していることになる。しかしながら、そのことが問題になるのは、単にヒトの生息環境として用意されているのがこの地球しか今のところないからである。

つまり私たちは、非常に差し迫った環境問題以外については、「何も考えずに規模を拡大している」ことに対して何の内省も行っていないのである。仮想人類の文脈では生息環境の広さに関する制限はないので、この「内省」が行われやすくなると思われる。何人の村ならいいのか?100人の村より60億人の村のほうが、あるいはもっと大人数の村のほうが幸せな社会だと言えるのか?逆に、何人であろうと
大した相違はなくて、むしろゼロでも価値は同じなのではないか、といったような内省である。

このように考えるのは、あまり現実主義的ではないように映るし、実際その通りだと思う。しかしながら、人生に意味はあると考える人々にとっては、この問題は無意味ではないだろう。何しろ、一人一人の人生にオリジナルな意味があるのなら、100人の村より60億人の村のほうが、意味の総量は多くなるに決まっているのだから。

そう考える一方、多ければ多いほど良いとも思えないだろう。よって、「人生には意味がないことにする」か、「(ゼロから無限の間において)ちょうど良い繁栄規模はこれである、という説得力ある説明を見つけだす」か、「別のシナリオを考える」か、以上のうちいずれかの方針を採って考えを進めなければならない。

個人的には、最後の選択肢を考えているが・・・気が向いたら書くことにする。

現実と小説

今日の世界文学ワンダーランドはジョン・アップダイクの『クーデター』だった。著者はアフリカに、アフリカのイメージを代表するいかにもアフリカらしい架空の国を作り、そこからの視点でアメリカを風刺した。僕はかなり最近まで小説を軽視してきたので、少し前なら「国まで架空なんじゃ、読んでも何の得もない」と思っただろう。世の中には特定の小説について読書体験を共有し、そこに登場する人物や概念について議論をする人たちがいる。一体その議論は何だろう、何の意味があるのかと。

でも今では、逆に現実についての議論は何がそんなに(小説についての議論に比べて)偉いのかと疑うようになってきている。抽象的な言葉を用いた議論は本来仮想的なものだ。現実にある複数の現象・パターンに名前を設定し、それを文法というテンプレートに入れ込んで文章を作る。文章と別の文章を交換してコミュニケーションをし、何らかの合意に至る。なるほど役に立つ。しかし小説についての議論でも、同程度に合意に至るだろう。その合意は、一定範囲の文脈中において特定の命題が真であるかどうかに関する合意であり、その点では現実でも小説でも変わりがない。

ただしその特定の命題なるものが、現実について議論される際には、真であるか偽であるかが実在人物の生活に影響を与え、小説について議論される際には、真であっても偽であっても実はどうでもよいというあたりが相違点であろう。しかしながら、ここから直ちに現実についての議論のほうが現実的に重要だと言うことはできない。なぜなら、結論が実際の利害に直結しないということは議論の展開に自由度をもたらすからである。

実際の利害について興味がある私たちは、今までにない新しいものを作りだすことに興味を持っている。新しいものが誕生すると利害関係に影響を与えるからだ。ここで、もし議論が・・・一人の頭の中でのみなされる議論、つまり思考も含め・・・その展開に強い制限を加えられていたらどうだろう。新しいアイディアが自分にとって有益かどうかを考える際にはまずタネをたくさん用意しなければならないというのに、現実に正しいことからの演繹でしか選択肢を手繰り寄せられないのでは非常に効率が悪い。

小説中にでてくる言葉も現実に話される言葉も、それらを構成する単語に分解してしまえば区別がつかない。組み合わせ方に強い制限を課したものが現実的な言葉であって、逆に最低限の制限しか課さないものが小説的な言葉である。この自由度によって小説は多くのタネを生み、例えその多くが現実に役に立たないものだとしても、何%かが新種の有用なアイディアとして生き残る。

小説がいくら架空の話だといっても、人間は全く現実に即していない世界を考えることはできない。現実についての話がいくら現実的に感じても、人間は完璧に現実を頭の中に(あるいは紙の上に)再現することはできない。そういうわけで両者は互いに歩み寄って、私たちが考えているよりずっと近い距離に並んでいる。

『博士の愛した数式』レビュー

前途有望な数学博士が交通事故で脳に障害を受け、80分しか記憶が続かない体になってしまう。彼のところへ家政婦としてやってきた女性(以下、家政婦さん)とその息子・ルートとの心の交流。基本的にはそれだけの話だが、延々と続く3人のやりとりを見ているうちに、80分しか記憶がもたないのを自覚して毎日を過ごすのはどんな感じなんだろうと想像することになり、それが生み出す膨大な行間が単調なストーリーに厚みを加えている。

博士は80分しか記憶がもたないので、重要なことは全て紙にメモして自分の体に貼り付ける。家政婦さんが尋ねてくる時は博士にとって毎回初対面なので、「新しい家政婦さん」と書かれた似顔絵つきのメモを見て既に知り合いであることを認識する。彼の記憶は、交通事故に遭う直前における全記憶と、直近 80分の記憶、体に貼り付けられたメモや数学のことを記したノートなどの外部記憶によって構成されている。

彼の80分を1サイクルとし、新しいサイクルが始まった直後について考えてみよう。このとき彼は、新しいサイクルが始まったという事実を認識することはできない。彼は習慣的な動作によって「僕の記憶は80分しかもたない」と書かれたメモを見る。そして初めて、そのサイクル内で博士は自分の障害を認識する。

次に彼はニュースや新聞で現在の日時を確認したり、書いた覚えのない自分の筆跡がノートに記されているのを見て、メモの真実性を強化するだろう。僕の記憶は80分しかもたない。彼のサイクルは深い悲しみから始まり、しかもサイクルを経るごとに、忘れてしまった(と彼が認識する)記憶の量が増えていく。

サイクルの中程で、彼は家政婦さんとルートとの楽しい時を過ごす。彼は子供が大好きであり、また家政婦さんも、博士のところに通うたびに数学に対する興味をもって話を聞いてくれるようになる。しかし彼は今いるサイクルの開始時刻が分かっているであろうから、あと何分でこのサイクルが終了するかも分かっていると思われる。楽しければ楽しいほど恐怖も大きいだろう。

サイクルの終了間際、小説での描写による博士は非常に穏やかだが、もし彼の過ごした80分弱が非常に楽しい時間だったなら、次のサイクルの自分にメッセージを残そうとせずにいられるだろうか。しかし濃密な体験とそのアウトプットを両方満足に完了するには、80分は短すぎる時間である。つまり彼は、濃密な体験を望まないだろう。彼が体中にメモを貼り新しいメモをどんどん追加していくのは、記憶をつなごうとする欲求の現れであろうから、次の自分が瞬時に取り込める類の情報を残そうとすると思われる。それが数学である。

もし彼が記憶障害である事実を知らなければ幸せだろうかと、ふと考えてしまう。その事実を知るのを遅らせるのは簡単なことだ。「僕の記憶は 80分しかもたない」と書かれたメモを、家政婦さんがコッソリ取り外してしまえばよい。しかし彼の記憶は遠い昔の状態で止まっているから、現在日時を知ったりノートに覚えのないことが大量に書かれていたり、自分の手が年老いていると感じるだけで彼の苦しみは開始されるだろう。

現実から隔離された部屋に、博士が交通事故に会った翌日の日時を表示するデジタル時計があり、博士が書いたメモやノートは全てコッソリ捨ててしまう家政婦さんがいるとしよう。それでもなお、彼が年をとっているという致命的な問題は克服できない。もし彼がそんな部屋にいるとしたら、自分が年をとっている理由が全く分からず、しかもそのことを口先でごまかそうとする見知らぬ家政婦がいるのみなのである。

そんな状況に人は耐えられるだろうか?そう考えてみると、「僕の記憶は80分しかもたない」と書かれたメモは苦しみの元凶ではなく、どの道やってくる苦しみを最もマシにしてくれる鎮痛剤なのである。80分しか記憶がもたないことが分かれば、彼は現実から受け取る情報と自分の状態とのギャップをすぐに理解するだろう。数学者にとって、あるいは多くの人間にとって、分からないという事実から発生する不安ほど苦しいものはない。

この小説には博士が感じるであろう上述のような苦しみがほとんど描かれていない。彼の数学に対する純粋な思い入れや子供に対する優しさ、数列の美しさ、そういった綺麗なものだけで出来上がってしまっているのが残念に思える。著者が書きたかったのは数学のエレガンスと数学者の美学なのだろうが、記憶障害は小説を盛り上げるために気まぐれで振りかけられるほど手軽な調味料ではない。ある状況が現実世界で実現した場合に当然発生すると予想される現象は、類似した状況が実現している小説世界においても発生しなければならない。そうしないのであれば、紛らわしいから現実ベースの小説は書かないほうがいい。

2011年2月12日土曜日

会社は従業員に対しても社会貢献をする責任がある

よその会社の話だけども、知人の上司が脳梗塞で倒れたらしい。
容易に想像できるが、血圧が高くて太っていたという。
その人の食生活はよく知らない。だから不摂生がたたったのか元々そういう体質だったのかも分からない。
とはいえ、もし自分に部下がいてその子が会社で変な時間におやつなどモリモリ食べているようなら、
多少は干渉しようかなぁと思う。会社での人間関係が少しも家族化してはいけないってことはないだろうから。

会社にとって、従業員が健康に気をつけてくれるのは非常に有り難いことのはずだ。
健康に気をつけることが可能な時間は、プライベートの時間だけではなく業務時間も含まれる。適切な気分転換、適切な姿勢と姿勢転換、エレベーターの代わりに歩く、残業を減らして夕食の時間が遅くなりすぎないようにする、等々。
でもその努力が有難がられることは、実際にはあまりない。それどころか、会社によっては残業が少ない人に対してもっと残業させようとしたり、気分転換や姿勢転換をサボりと見なすことさえあるだろう。

それが蔓延することによって会社中が気分転換だらけになったら困るというのは確かにある。でもそれなら、気分転換をどれくらい許すかによってチームの雰囲気や達成タスク量がどう変わるか、それぞれの管理職が見ればいい。
残業のほうは、それが個人の活力につながって達成タスク量が増える場合もあるだろうが(例えばプログラミングがノッてきて面白くて仕方ない場合とか)、人によっては2・3時間やる程度ではほぼ増えない場合もあるだろう。

例えばこういうことだ。持久走をするときランナーは、何km走るか決めてから走る。なるべく早く走ろうとする人Aもいるし、ゆっくり走る人Bもいる。この持久走を取り仕切る先生が、Aにだけ150%のノルマを課したとしよう。この意図は、AとBが走り終わる時刻を近づけることである。この時Aは2種類に分かれる。ノルマが増えてもなお全力で走ろうとする人A1と、自分の体力を考慮して初めからペースを落とすA2である。

※どの程度ペースを落とす必要があるかは個人の体力による。A2の場合、普段の1/2としておこう。

A1は(体力があれば)先生の意図通りBとほぼ同時刻にゴールする。A2はペースを半分に落とした結果、大幅に遅れてゴールする。というわけで、A2に追加ノルマを課した先生の意図は失敗している。そのうえ単位時間あたりの走破量も落ちている。

一日の初めに「今日は2・3時間残業しよう」と決めることは、持久走の追加ノルマに相当する。
そう決めた人がA2タイプであれば、単位時間あたりの走破量すなわち効率が落ちることにより、タスク達成量は何時間か残業したあとにやっと(残業なしの日より)多くなり始める。仮にその時刻が21時だとして、22時まで働くと(落ちた効率)×1時間分のタスクを余分にこなせることになる。

一方、夕食の時間が遅くなったり自由時間が少なくなったりすることで健康とモチベーションの両面で悪影響が予想される。さて、余分にこなせるようになったタスク量はこの悪影響に見合うか?ましてや、長い会社生活の中で150%ノルマを続けていった時、効率の低下幅がずっと同じで済む保証はない。

ストレスが過食につながりやすい人だっているのだ。その因果関係を疑ってもみないで、ストレスを低減できる働き方を部下に提案してあげもせず、ある日病気になったら運が悪かったね、ひどい時には自業自得だなどと言う、僕は幸いそういう上司は見たことはないが、もしいるとしたらいかがなものかと思う。

相談にのるのはまだ良いほうだが、グチを聞いているだけなら無能の範疇を出ない。忙しいのは分かるので一人一人に丁寧に働きかけろとは言わないが、自分で健康やモチベーション管理をするよう奨励し、すでに実践している人は評価するべきだ。自分のチームの業績だけを気にするあまりつい業務偏重な命令をしてしまったとする。部下からそれを指摘されたら、ハッと気づいて訂正する。指摘しやすい空気を作る。管理職自ら実践する。こういった文化に理解のない、さらに上の偉い人から部下を守る。どれもそんなに面倒くさいことじゃない。

追記1:
A1がA2より評価されるのは仕方のないところ。しかし上司はA2を認めなければならない。
また、A1は150%のノルマなら全力で走れるが、これが200%とか300%とかどんどん増えても全力で走ろうとするなら危険である。自分の体力を考慮しない未熟さを上司が黙認すると、最悪の場合は過労死ということになる。

追記2:
ある意味、残業は会議と似たところがある。残業をたくさんしていれば、自分は精一杯のことをしていると思って安心するからだ。しかし特に社外とのやりとりが多い業務形態の場合、営業時間内の応答頻度と質を高めることが重要になる(正しい問題の立て方、正しい内容の応答をすることによって、プロジェクト完了までに必要な総コミュニケーション量が減らせる)。

十分な対話をこなさないまま営業時間外に突入したら、作業系の業務はどうにかなっても外部コミュニケーション系の業務は置いてきぼりだ。そして往々にして、プロジェクトが遅れる原因はコミュニケーションのまずさにある。残業には残業代というインセンティブがあるが、対話を円滑に進めることについてはそれほど強力なものがない。
だからこそせめて管理職は、下っ端の人間と一緒になって残業神話を崇拝していてはいけないと考える。