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2012年2月14日火曜日

利他について

タイム・コンサルタントの日誌から : 書評:「持続不可能性」 サイモン・レヴィン著
http://brevis.exblog.jp/14689955/

生物界には、「利他的」としか言いようのない、不思議な現象が時々ある。それを、めぐりめぐって最終的には自己や自種の適応可能性を高めるから、という視点から説明しようという、いかにもネオ・ダーウィニズム的な研究アプローチである。

しかし、本当にそういう説明ですべてが納得できるのだろうか。進化ゲーム理論やネオ・ダーウィニズムには、競争原理はあれども、協働原理は存在しようがない。前提条件から排除されているからだ。

なんか前にもReblogしたような気がするけど・・・既視感かもしれないけど・・・なんか気になるテーマです、利他。
ふつうは生物の進化は自然淘汰がその原理とされている。個体が自分自身のためにつまり「利己的に」生き、その生き方が自分の長寿というか繁栄力をもたらすのであれば、その生き方に対応した遺伝子が次の世代において優勢になる。これは利他を装った利己であっても同じことでしょう。なぜなら「生き方が自分の長寿というか繁栄力をもたらすのであれば・・・」という文章中の「生き方」は、それがどんな内容であっても文章全体の意味を壊さないから。

でも引用文中の「自種の適応可能性を高めるから」という部分は簡単に見逃せない。ここで言ってるのは、ある生き方が(めぐりめぐって最終的に)自分のためにならなくても、自分の生物種の繁栄をもたらすならばその生き方が自然淘汰によって優勢になるという意味かと思うが、るろけんの志々雄真実も言ってるとおり「強い者が生き残るんじゃない、生き残ったものが強いんだ」であり、遺伝子の拡散ってそもそも個体が生き残らないことには起きようがないわけで、仮にある生き方が自分の生物種の繁栄に寄与するものだとしても自分自身のためにならないならその生き方は後世に伝わらない。

といっても、人間なら利他があっても不思議はないかなという気もする。人間には遺伝子とは別の形で文化を伝える手段があり、それぞれ文化Aと文化Bを持つ国家AとBがあって、それらが戦争でもして国家Bが消滅した場合、Bの文化もあらかた消滅するわけであるから文化Aが後世に残るだろう。この場合、利他が国家のためになるなら利他が美徳として奨励されていたのは文化BではなくAのほうである可能性が高い。要するに利他は文化であって本能じゃないんじゃなかろうか。

もし利他が本能なのだとしたら、わざわざ奨励する必要はないわけである。お母さんを大切にしましょう・・・これは遠まわしな利己だ、だからそんなに奨励する必要はない。でも子供が成人したら彼は母親なしで生きていける、だから成人した子供が母親を大切にするのは遠まわしな利己とは言えない、つまり利他だ、だから奨励する必要があって、実際奨励に用いられている言葉は「親孝行」でありその対象は大人である。

もし原始的な生物に利他があるとするなら、その生物種の個体間にも文化的なものがあるんじゃないだろうか。例えば模倣とか。ある個体が気まぐれで利他アクションを起こし、それがなんか真似したい感じだったので近くにいた個体が次々に真似をして、世代間のオーバーラップによって伝えられていくような。集団的にその利他アクションを行うと生物種にとって良い影響があるなら、利他アクションを行わない類似の生物種より繁栄しやすいことになるだろう。

つまり、遺伝子じゃなくアフォーダンス的な反応(原始的な模倣)によって伝わっていくことって実は結構あるのだが、我々から見て利己的と思われる行動は自然淘汰ということにして、利他的と思われる行動は何とか利己に帰着させようという、そういう間違いをしてる可能性ってないのかしらと思ったりした。