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2010年6月21日月曜日

『ルポ 最底辺 - 不安定就労と野宿 -』を読んで(1)

ちくま新書、生田武志著、2007/8/10 発行。

「おわりに」より:
藤本さんが亡くなって1週間たち、釜ヶ崎の運動団体によって橋の上で最後の追悼行事が行われた。
その最後に献花が用意され、通りかかった人などたくさんの人達が藤本さんのために花を投げていった。
ただ、ぼくは川に投げられるたくさんの花を見ながら、「死んでから花を投げても遅いんだよなぁ」と思わずにはいられなかった。
〜中略〜
しかし、だとすればその自分が、次々と殺されていく人たちがいる中で何もしないでいるのは何故なのか。
事実、野宿者襲撃事件は次々と起こり続けている。そして、若者の襲撃で殺されなくても、
日雇い労働者や野宿者は仕事がないというだけの理由で現実に次々と死んでいる。
しかもそれは社会的に黙殺され、放置され続けている。そのたびに、明日、あさってとまた橋から路上から公園から花を投げるのか。

大阪市西成区にある日雇い労働者の街「釜ヶ崎」は、1986年(著者が21歳で初めて釜ヶ崎を訪れた当時)から2007年現在にいたるまで、2万5千人の日雇い労働者と1万人以上の住民がすむ「日本最高の人口密度の街」である。かつて日本の4大寄せ場と言われた地域があったが、現在も寄せ場として機能しているのは釜ヶ崎だけである。

2007年4月6日に発表された厚生労働省の「ホームレスの実態に関する全国調査報告書」によると日本のホームレス数は1万8564人、2003年より26.6%減少した。厚生労働省は「景気の回復により・・・全体の人数が減ったと見られる」とコメントしたが、著者によれば、野宿の減少は主に「高齢化」による生活保護の増加によって起こされていた。また行政による公園からの追い出しが進んだことや、ネットカフェ難民等の増加によって調査に反映されにくい生活形態になってきているという。

『最底辺』を読んで印象に残ることは3つあり、1つは不安定就労とホームレスという社会現象自体の問題、1つは2極化していると言われる社会の中でどちらに転ぶか決定される気まぐれなメカニズムの問題、1つは先の抜粋にもあるように、「だとすればその自分が、次々と殺されていく人たちがいる中で何もしないでいるのは何故なのか」という問題。

1つ目はまさに『最底辺』が扱っている内容そのものなので特には触れない。とりあえずこのエントリーでは2つ目について書いてみる。この問題は第6章のイス取りゲームの比喩でも述べられているように、野宿者自業自得論に関するものである。これは努力が足りなかったから失業して野宿になったんだとか正社員になれなかったんだという主張だ。

この主張が正しくないのは当たり前だが、つい取り憑かれてしまいがちな考えとも言える。言い換えてみればよく分かる。世の中には声を大にして野宿者自業自得論を唱える人はそんなにいないが、一般に成功者と言われる人の中には「自分は努力したから成功したんだ」という人は結構いる。自分を褒めるか他人をけなすかの違いがあるだけで、中身は一緒だ。

第6章あたりを読んで再認識するのは、(自分を褒めている)この主張は、当人がいかに運がいい環境にいるか(これまで居続けてきたか)をあまりにも無視しすぎているということだ。口には出さなくても、そういう人は大なり小なり野宿者自業自得論主義者である。もちろん本当にサボリ症の人もいるだろう。でも同じくらいサボリ症の人が富裕層の中にいないとは全く言えない。

この本にもあるように、何事もパイの分け前は限られているのである。仮に能力もやる気も同じ人間が2人いたとして、1つの椅子を巡って椅子取りゲームをしたら、(同じだけの努力をするにも関わらず)確実に1人は負ける。そして勝った事実が好循環を生んで努力が報われる流れを作り、負けた事実が悪循環を生んで努力が報われない流れを作る。

そもそも、パイをとるのに有利な条件は当人が生まれた家庭環境によってその大半が決まっている。両親(とその収入)が決まり、遺伝子と(言語や法を含めた広い意味での)生活環境が決まり、通う学校の候補が絞り込まれ、友達の候補が絞り込まれる。そうした巨大な基盤の上に築かれた自分が「最初から自らの力で存在する」ものと考え、その自分が努力するのは自分に気概があるからだという。冗談じゃない、「気概がある自分」に育ったその道筋を与えられれば大半の人は努力できる。

人間の一生は精子と卵子の相互作用から始まって、生まれてからは外部環境との相互作用が延々と続いていく。今あなたの目の前にいるあの人が何やら動き回り何事かしゃべっているのだって、外部環境との相互作用に過ぎない。その言動が気にくわないからといって彼が悪いわけじゃない。もしあなたが彼と同じ人生経験を経て現在の彼と同じ環境におかれたら、違う言動をする自信はないだろう。

もちろん、個別の言動に対して「彼が悪い」と言う事はできるが、あなたにとって気にくわないことをたくさん言う傾向自体は必ずしも彼の意思で自由になるものではない。だから、あなたが自分の「特定の分野でよく失敗をする傾向」を指して「これは私のこれまでの生活環境のせいなのです」と言うこともある意味で正しい。
(※自分で自分の傾向を見抜いているならそれは避けられるはずだから、実際上はこの論法の対象に自分は含まれない。しかし不適材不適所にもかかわらず命令で仕事をやらされているような場合には自分に対しても正論になりうるだろう)

他人をこのような視点で見ることができない人は、その人の傾向を「意図的な行為の集合」として受け取ってしまう。傾向が気にくわないものであれば、「生理的に受け付けない」という拡大解釈によって拒絶を正当化する。一方、傾向が気に召すものであれば、その人がどうやってその傾向を身につけたかというプロセスに目を向けず盲目的に崇拝あるいは信用し、たまに期待を裏切られた折には反作用でひどく衝撃を受ける。どちらにしろ迷惑な話だ。

私たちは理由もなく上手くいくこともあれば、その逆もある。少なくとも、上手くいく理由や上手くいかない理由を説明することはとても難しくて、実際上不可能と言っていいケースだって(私たちの想像を遥かに超えて)ありふれているだろう。
もし自分が成功者だと思ったら、的はずれな成功の法則発見なんかしている暇にその境遇に感謝してみたらどうかと思う。