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2011年7月18日月曜日

分かりやすく伝えること

大雑把にいうと世の中には2種類の人がいる。どんな難しいことでも分かりやすく伝えられると思っている人と、とても難しいことは分かりやすく伝えられないと思っている人。ちょっとそれぞれの主張を書きくだしてみよう。

前者の典型としては、例えば数学の教授に「あなたの説明は私には分からない、もっと分かりやすく説明するべきだ」とイチャモンをつける学生が考えられる。世間一般でいうところの「分かりやすい説明」とは、細かいことはどうでもいいから概要をかいつまんでするようなものを指すことが多い。しかし数学の授業で細かいことが伝えられなければ、大学の授業として価値はないだろう。

そのように思っている教授がいるとすれば、それが後者の典型だ。分かりやすい説明と正確な説明は両立しない。だから、正確な説明が求められる場面で(誰にでも)分かりやすい説明は不可能なのだと。もちろん、正確な説明をする教授が2人いてそのどちらかのほうがもう一方よりずっと分かりやすい説明をすることはある。でもそれはあくまで、ある程度分かっている人にとって分かりやすいだけのことで、誰にでも分かりやすいなんてことはない。

さて本稿では、前者も後者も「相手に歩み寄らない」という点で閉鎖的であると主張する。分かりやすい説明をさせることは、相手にかなりの精神的負担をかける。説明を受ける人間が前提知識を持っていればその負担を軽減できるのだから、説明する側にだけ分かりやすさを求めるのは怠惰で横柄な態度といえる。

一方で、どんなに難しい内容でも、正確さを犠牲にして概要を伝えることが有効な場面はあるように思う。例えば先の数学の授業でいえば、これから取りかかる章を理解するとどんな応用につながるのか、これまで学んできたどんな知識が活かされるのか、そもそも歴史上の先人たちはどんな問題意識でもってこの章で言われている内容を創り上げたのかなどを説明することは可能であり、学生に勉強する意欲を与えるだろう。

説明を求められた時、常に求められた(と思う)まさにその内容について説明しようとするのはバカ正直すぎる。相手が前提知識なしに、前提知識が必要となる内容を聞いてきたのなら、内容の周辺や関連事項を話してあげるとよい(場合によっては前提知識の齟齬を指摘すべきかもしれないが)。特に自然科学を志す人間はものごとをうまく説明できてなんぼという強迫観念があるので、説明しろといわれれば正確に説明しないと気が済まない人が多い気がするのだが、イマココにあって有効に働くのはその説明だけではないしそれどころか全く関係ないことかもしれない。