JSの設定

2011年3月22日火曜日

都心における東日本大震災、その微妙な平和ぶり(1)

2011/3/11金曜日、東日本大震災があった。
僕がつとめる毎日新聞社ビルでも震度5強の揺れがあり、
天井が落ちたり本が雑誌がぎっしり詰まった僕の席の隣の棚が倒れてきたりした。
近くの九段会館でも天井が落ち、そちらでは運の悪いことに1名お亡くなりになったらしい。

マグニチュード8.8という情報はすぐ入ってきたから、普通に考えて週明けは自宅待機だろう。
なぜなら強い余震がさらに近い場所で起こることがありえ、また天井が落ちるなどの予測不能事態がありえ、
すると九段会館同様の事故がありえるから。1日弱たってから分かったことだが原発(電力)の問題もある。
しかし残念ながら会社に危機意識がなく、この予想は覆された。

3/11地震後は近くの公園に避難指示。その後に帰宅許可がでたので帰ろうとしたが電車が動かない。
会社に戻って行く人も多かったが、電車が長く動かないことも考えられるので
ひと駅ずつ西(帰宅方向)に歩きながら電車の状況(や震災の影響)を確認することに。
とりあえず上司(運のいいことに休み中)に電話をかけるがつながらない。

竹橋から九段下に向かう途中、腰を落ち着けてギャラタブ(スマートフォン)で情報を見るために
プロントなど喫茶店を見て回るが営業を中止しているか持ち帰りのみとなっている所が多かった。
九段下の地下鉄入り口をひとめ見ると大勢の人がたむろしており、まだ電車が動いてないことが分かる。
小諸そばならやっているだろうということで別に食べたくもないがそばを食べた。
こんなに混んでいる小諸そばは初めてだ。

ギャラタブで情報を確認していると、隣に座っていた中国人のおばさんが片言の日本語で話しかけてきた。
中国人はいつも気さくなのかもしれないが、災害時だし既に共通の話題が約束されているから
余計話しかけやすいのだろう。小諸そばは口に合わなかったのか、そばもご飯も大量に残っていた。
ご飯がついているところから見てお腹じたいは減っていたと思われる。
小諸ファンとしては遺憾である。

外を見てもたむろの人々が動き出す気配はないので飯田橋に向かう。
しかし間違えて市ヶ谷方面に歩いてしまい時間を大幅ロス。
東西線の線路沿いに歩いていけば家には着くはずなのだが地下鉄なので線路が見えない。
総武線が動いていればそれで帰れると思ったが動いていなさそうだ。しぶしぶ元の道を戻る。

飯田橋についたのは18時くらいだったか。もうだいぶ暗くなり、外はかなり寒い。
バス停に長蛇の列。たしかに、これに乗れたら高田馬場まで帰れる・・・
でもこんな寒いところで待つ気しないよ。と思いつつも一旦はなまるうどんに退避し、
出てきた時に列が短くなっていれば待ってみようかなと思った。

はなまるうどんのうどんは美味しくて元気がでた。
情報収集も完了し、JRが早々に本日中の運転再開を断念したことを知る。
バス停の列は全く短くなっていない、むしろ伸びている。
しかし往生際わるく、都営大江戸線の様子を見に行ってみることに。

飯田橋の都営大江戸線ホームには初めて行ったが、遠かった。二度と使わないだろう。
結局動いておらず、飯田橋を後にして神楽坂に向かう。
地下鉄ではあんなに近い飯田橋 - 神楽坂間がこんなに時間かかるとは・・・
牛込神楽坂に心を惑わされつつ何とか神楽坂を通り過ぎ、休まず早稲田へ。
どこまで行っても歩いて帰る人達がたくさんいた。

そばとうどんで腹は一杯なものの寒さで限界が訪れ、早稲田のカフェで一服。
20時15分くらいに入ったが、20時半閉店と言われた。
コーヒーを飲んで情報収集している時、グループ会社の知人から電話が。
新宿オフィスがエレベーター動かなくて、23階に来客があった彼女は客を送るため1階まで往復したのだと言う。ふーむ。

もっと高い建物にいる人は大変だったろうな。
東京タワーを外から見ていた人の話じゃ、地震のとき「たわわ、たわわ」と揺れていたそうだ。
そんなこんなで21時ごろ自宅についた。
地震直後にも電話したが、再び実家にPHSで連絡をいれる。
今回の地震では各社携帯がつながりにくい中、PHSとツイッターは非常に役に立ってくれた。

結構しんどかったが、歩いて帰れるのは有り難いことだ。テレビを見ながら、そう思った。