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2011年7月23日土曜日

新井薬師盆踊り

今日は新井薬師盆踊りに一人でぷらぷら出かけたものの人口密度が高すぎてすぐ撤退することになったが、さらにぷらぷら歩いていたらいい感じの本屋を発見して280円で2冊購入した。
「ズラータの日記」と「ドキュメント 戦争広告代理店」。
自転車を使わず歩くとこういういいことがあるのかと思った。
自転車にのってると店を見逃しやすいし、もし見つけてもいちいち止まるの面倒だもんね。

昨日は「3月のライオン」6巻の発売日だったので早速買ったらそのあと弟から「3月のライオン買ったから買うな」というメールがきた。もう遅いよという返信はしなかった。
内容は うーん じいちゃんの「ひな・・・よくやった!!」がカッコよかったというのがまず第一。
そして相変わらず先崎学のコラムは(少なくとも1回目は)読み飛ばしてしまう・・・

あとはまぁ ひなの担任みたいな駄目先生に遭遇したとき「あぁこの人は駄目な人なのか」と思えればひなみたいに鼻血出さなくて済むんだけど、小さい頃はそういう客観的判断はなかなか難しいので真正面から相手してしまって泥沼になるんだろう。話は、それが通じる人で、かつ問題となってる現実に影響を与えられる立場にいる人にする必要がある・・・ただ面倒なのは、桐山の元担当教師が言うように別の先生に話をすると駄目先生も色々防御線をはると思われること。なかなか、いかに駄目な人とはいえ1人の大人がはる防御線を崩すのは、周りの駄目じゃない人々にとっても大変なことだろう。何しろモンスターというのは恐れを知らないので結構交渉ごとに強かったりするから。そうだとすれば、監査的役割の先生がいないことか、あるいは担当の先生が1人しかいないことが学校体制の弱点なんじゃなかろうか。
などと思ったりした。

また村山聖のエピソードを知っている身としては2番煎じではあるものの、二階堂の「将棋でまで弱い人間扱いされたら、もう僕はどこで生きていったらいいんですか」
と、「カッコつけんな桐山!」にはウルっとさせられる。

後者は「本当に勝ちたいんなら、粘れ!」と続くが、この言葉の意味をちゃんと理解するには補足が必要だろう。つまり、将棋を芸術のように あるいは自分の勝負哲学の表現のように あるいは学問的探求のように考えたりすることは勝手だが、とにかくその局面で勝つために「粘る」といった学問的でも芸術的でもないことまで平等な選択肢として考えなければ読みの視野が狭くなってしまうということだ。

あるいは逆に粘ることがモットーの人がいたとすれば、常にその勝負哲学に従うことが勝利につながるわけではない。羽生みたいな抜きん出て強い人が他の棋士と比べて脱個性的なのは、1つには上述した意味での視野を目一杯広げた結果だと思われる。そして結局、狭い道一本からなる勝負哲学の実戦は傍目にカッコイイが、視野を広く持って数多くの思考パターンを経験した人の蓄積に負けてしまい、いつのまにか将棋を学問する基礎力の点でも差をつけられることになる。

カッコつけんな桐山!というのはある意味で、カッコイイことをするためには準備が必要だよ、おまえにはまだその準備が足りてないよと言ってるのと似ているように思う。