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2012年12月26日水曜日

言葉はすべて実用世界の住人である

感謝、敬意、挨拶など、世間一般で大切と言われているのに、それがどうして大切なのか説明するのが難しい言葉がある。説明が難しいとはどういうことなのか示すために、説明が簡単な例を取り上げよう。スプーンの使い方、お金の概念、歴史、我慢すること。これらが大切な理由を説明することは簡単だろう。

説明が難しい概念をD(difficult)群、簡単な概念をE(easy)群と呼ぼう。説明が難しいのに子供の頃から身につける必要があるD群は、それを習慣化させることによって親から子に伝承されるのが普通である。年上の人は敬いなさい、いいことをされたら感謝しなさい、人に会ったら挨拶しなさいという具合に、なぜそれをする必要があるのか説明されない。

これにはいくつか利点がある。第一にD群の内容は難しいので、うまく説明できない可能性が高い。説明しなければ、少なくとも間違った説明を相手に教えてしまうリスクがない。第二に、うまく説明できたとしても、D群の正確な説明文は難解なので相手に相応の読解能力がないと理解してもらえない。第三に、仮に難解な説明文を相手が理解してくれたとしても、習慣化されていない行動はいざという時に発動しない恐れがある。

しかし本稿では、中学生にも高校生にもD群の説明が与えられないことに対する欠点を指摘する。僕自身、日常世界の全概念がD群とE群に分割されていることに気持ちの悪さを覚え続けてきたからである。もう少し正確にいえば、D群があたかも説明不可能なもののように扱われているのが気持ち悪く、その気持ち悪さを周りの人は感じていないように見えるのが僕を不安にさせたということだ。

今考えてみれば、当然D群は実用世界の言葉として説明可能である。
例えば「東京駅」と比べて「こんにちは」は文言としてあまり意味がないように感じられるが、実際使ってみれば意味があるわけである。共通の、TPOに即した話題がすぐには思い浮かばない程度の相手に対して、変に思われない発声ができるとしたら挨拶以外にない。声を聞かせ、返事を聞くことによって生物学的な情報を交換し、その情報を土台にして次の発言に必要なステップを小さくできる。

上記は「挨拶」の説明文である。「挨拶したほうが気分いいじゃん」という簡明な文によって挨拶の大切さを説明することもできるが、気分がよいのは経験的に挨拶後の気分の良さを知っている常識人にとってだけであって、気分がよい経験をしたことがない(もしくは経験したことがあっても、”こんにちは”の「文言としての意味のなさ」に対する失望感が、気分のよさに勝ってしまう)人にとってその簡明な説明は受け入れがたい。

「今は何で大切なのかよく分からないけど、大きくなれば分かるだろう」とスルーできる子供は常識的に見て確かに賢い。しかし、そうでない子供もたくさんいる。難解な説明文がもし理解できなくても、それが参照可能なところにあることを知るだけで安心するはずである。なぜなら、大切とされていることに理由がなくて周囲の大人も分かっていないのなら、自分が大きくなっても分かると思えるはずがないからである。

また、子供の悩みを緩和するという側面の他にも、D群の言葉を実用世界のものとして説明することは意味がある。つまり、実用上の意味が分からないまま大人になり昔の習慣を軽視するようになると、その概念は簡単に元に戻ってはくれないのである。例えば日頃の感謝を忘れることは大人の世界では日常茶飯事であるが、これは”感謝”の説明文があれば起こりにくいと思われる。

感謝とは、{「相手が何のために何をしたか」を自分が認識している、という事実 }を相手に伝える行為の一種である。自分が何を認識しているかを伝えることはコミュニケーション上重要である。その情報があれば相手は自分のことをより理解して行動してくれるようになるのだから。

感謝の意味はもちろん、そのように単純なものだけではない。
例えば、そもそも相手に関する認識を伝えるためには「相手」という1つの外的世界を理解する必要があり、感謝する相手や対象が増えることは「自分が理解している外的世界が増える」ことを意味する。それが内的世界の理解につながることもあるだろう。

このように色々な物事に対する理解が深まることは確かに良いことではあるが、いま主張したいことは「実用的な意味のない言葉はない」ということと「言葉の意味は、その実用的な側面から順番に教えよ」ということである。「言葉はすべて実用世界の住人である」ことを明確にすることによって多数の子供は安心し、多数の大人は大事なものを失わずに非実用的な価値を積み重ねていくことができるだろう。