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2010年6月9日水曜日

判断より認知 〜自動車学校での話から〜

なぜか分からないが久しぶりに自動車学校のエピソードを思い出した。
僕は兵庫県の三田自動車学校で免許をとったのだが、そこでの講義で印象深いものがある。

※ちなみに三田自動車学校は略称をSAS(Sanda Automobile School)といい、教習車の側面にはでかでかとその文字が書かれていた。一方、睡眠時無呼吸症候群のこともSASという(Sleep Apnea Syndrome)。なのでSASという名前はカッコ悪いなぁと思っていた。他にもスカンジナビア航空とかイギリス陸軍とかSerial Attached SCSIなど全てSASといい、かぶりまくりである。どうでもいい話だが。

で、ある講義で教官が「認知と判断ではどちらが大切でしょう?」と生徒に質問したところ、
まず「認知だと思う人?」に対して手を上げた人はほんの数人しかいなかったことにびっくりしたのだ。
これはつまり、何かアクシデントなりインシデントなりが起こってそれに対処しようとする場合、
どうすべきか判断するのと、インシデントを認知するのとどっちが大事か?という質問なのだが、
大半の人は「判断する」ほうが大事と答えた。

私たちドライバーは、若い人のほうが交通事故を起こしやすいことを知っている。
でもその理由を求められた時、年をとったほうが判断力が向上するからだと、つい説明しがちではないだろうか?免許を持っている人はもはや、判断より認知のほうが重要であることを知っているにもかかわらず。このことは、私たちは年をとって運転がうまくなってもなお、自分がそのようにうまく運転できる理由を意識していないことを示していると考えられる。

僕が自分自身の中をのぞいてみたところによれば、年をとって運転がうまくなるのは判断力より認知力の向上が圧倒的に寄与していると思う。なぜなら、現実的に起こりやすいどのようなインシデントに対しても、有力な解答がそんなに多くあるわけではなく、その解答を見つけることは若いドライバーでも十分可能であるからだ。そうでなければ免許など与えてはいけない。

同一のインシデントであっても、事故を起こしにくいドライバーにとってはそれが重要なインシデントでありえ、事故を起こしやすいドライバーにとってはインシデントとして認識されすらしないということがありうるだろう。誰の目にも明らかな、アクシデントに発展しそうなインシデントであればそんなことはないが、一見無視して問題なさそうなものほど認知力がものをいう。つまり、問題を与えればドライバーなら誰でも解けるが、目の前で起こっている何事かを問題と思うか思わないかは判断力によっては決められないということだ。

私たちは、分かってるんだけどついやってしまう、あるいはやるべきなのに放っておいてしまうことがある。分かってるのに思い通りにできないのは何とも不思議だし、その不思議さを何回経験しても全く堪えない神経の太さはさらに不思議だ。その理由の1つには、分かっている時と、思い通りにできないでいる時が異なるということがあるだろう。

例えば何か悪い習慣をやめようとしていて、ついそれをやってしまったとする。この場合、それをやってしまったまさにその時には、それが自分にとって重要なインシデントであるという認知ができていなかったのである。一方、やめようとしていながらなかなかやめられない自分を後から振り返って意識した時には、確かに「それをやめるべきである」ことを「分かって」いるだろう。前者では「まさにその時」しか認知すべきタイミングがなかったのに対して、後から振り返ることは「まさにその時」以外であればいつだってできる。よって、だいたいの時間において自分は「分かって」いるのだと思い込んでしまう。

しかし、分かっているべきタイミングは「まさにその時、以外」ではなく「まさにその時」であることは明白であって、そうでなければ分かっていても大した意味はない。重要なインシデントを重要なインシデントとして認知し意識にのぼらせることがまず重要で(そしてこれは意識的には行えない!)、次にそのインシデントを「まさにその時」処理できるのが上手なドライバーである。こういったことを判断力によって行えると考える人間の性向が、あの日の生徒たちの回答になって現れていたのかなぁと、そんなことを考えた。

2010年6月6日日曜日

女性に関する疑問が昔より少し氷解してきた件

読売新聞で連載している漫画「あたしんち」にすごく共感できるシーンがあって、それがずっと頭に残っている。主人公であるみかんの父と母が2人で旅行にいき、電車の中で母が「あれいる?これ飲む?」などと父をかまっているうちに父が(YesかNoで答えられないような質問に対しても)「う・・・」しか言わなくなってしまうというものだ。

これはなかなか、女性には理解できないだろう。う・・・しか言わなくなるのは極端としても、女性が男性を相手に選び2人で話していたらだいたいのケースでは女性の口数のほうが多くなり男性は最終的に聞き役にまわり、そのうちイライラしてきてよく分からないところにツッコミを入れだし何故かしょうもないケンカに発展することは世間的にありふれているだろう。いずれにしても、話し言葉をインプットする時の許容量は女性より男性のほうが格段に劣っていると思えてならない。

そしてもちろん、少なくとも話し言葉に関してはインプットだけでなくアウトプットも女性のほうが優れているように感じる。そのあたりに興味があって、ガールズトーク(以下GT)の研究をしてみた。その定義からいって、GTの現場に男である僕が居合わせることはできないので、グータンヌーボその他のテレビ番組を参考にすることになる。

GTを見ていてまず思うのは、「よくしゃべるなー」とか「よくこんな簡単に知らない人同士が仲良くなるね」とか「また恋バナか」とかいったことだ。それぞれについて補足していえば、「よく続くなー」「年が離れてても打ち解けられるのがすごい」「あんたがたそんなに情報交換しておきながらどうしてそんなに恋愛を失敗する?」などというのもある。しかし総じていえば、すごい。情報処理の能力がハンパないとしか思えない。

女性は一体、世界のことをどれくらい正確に認識しているのだろう?というのは昔からの疑問だった。言語を操る能力や、実際の会話の場で表情やイントネーションを瞬時に読み取って無難な流れにもっていく能力、そういったものはどう贔屓目にみても男性より優れていて、かたや男はというと、空間認知が優れているとかいったってそれがどうしたという感じだし、体力面以外で何かアドバンテージがあるとすれば「(現実的か否かに関わらず)特定の一方向に問題解決する執念」ぐらいしか思い浮かばない。

女性に対して感じる圧倒的な能力にもかかわらず、しかしいまいち、その能力差ほどには女性の世界認知が優れていると感じないのは何故か?つまり、第3補足でもあげたように、女性だって男性並みに失敗をするのだとすればそれは何故か?

ちょっと話は変わって、最近哲学書を読んでいて思うことがあった。哲学というのは、普通の人から見れば当たり前のことを根掘り葉掘り疑って事細かく分解し1つ1つ亀の歩みのような遅さでゆっくりと妥当性を確認していく。例えば、ものが見えるのは何故か?と問えば、普通の人は「目に光が入るから」と言うかもしれない。でも哲学者にいわせれば、「目と同じ仕組みの機械があったとして、それに光が入ったらその機械はものが見えているといえるか?」という具合だ。言われてみれば不思議なところはある。それでも普通の人は、解決しなくても生活するのに困らない疑問に立ち止まったりはしない。

哲学者というのは、普通の人が直感的に分かることが分からないがゆえに考えるのだと言った人がいる。別の例でいえば、経営の意思決定をするのに直感的な決定を下す名人がいたとして、その人は実際にその決定を「直感的に」行うことを躊躇ったりはしない。常人があれこれ市場分析して数値を比較してやっと出すことのできる結論を、名人は直感的に導きだす。考えるのは確信がないためである(逆にいうと、考えたければ普段確信していることを疑わなければいけない)。

人間は、意識しなくても高度なことをやってのける。だからこそ、「なぜ人間はこんなことができるのか?」という問に答えるのが難しいのだ。ごく基本的な人間の生存機能に関してさえそうなのだから、芸術などの高次技能についてはなおのことだろう。

さて、このことが、「女性に対して感じる圧倒的な能力にもかかわらず、しかしいまいち、その能力差ほどには女性の世界認知が優れていると感じないのは何故か?」という先の疑問に答えるのに役立つのではないか。つまり、いかに技能が優れていても(高次技能であればなおさら)、それ自体の成り立ちや応用範囲まで考えが及んでいるとは限らないということだ。

GTを行う彼女らにとっては、それが周囲の女性との関係を円満に保つ単なる手段であり、あるいは純粋に話すこと自体が楽しみであり、何故自分が男性よりうまく話せるかなんてどうでもいいことなのだ。
それはゲームに熱中する男が、なぜ自分がゲームをうまくできるか気にしないのと変わらない。少なくとも僕が女性に関して感じていた謎の大ギャップの一部は、そう思うことで解決した。