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2011年2月20日日曜日

Developers Summit 2011

2011/2/17,18 目黒雅叙園で行われたDevelopers Summit 2011のまとめ。

17日に見たもの。
【17-A-1】
Mobile Future Conference開会のご挨拶/ 世界へ挑むDeNAの「X-border」「X-device」戦略
南場智子 氏 / 守安功 氏

南場さんの、TO氏(怪盗ロワイヤルの作者)に関する話が面白かった。
話を聞く限りTO氏はあまりエンジニア然とした人ではなさそう(営業から転向した)だが、
南場さんが評価する3ポイントであるところの「能力」「意欲」「実績」のうち特に2番目と、何がなんでもやり遂げようとする根性が抜きん出ているという。
そういうタイプの人がどのように会社に影響を与え、また管理する側がどのようにそういう人を扱うかに関する興味深い例。

守安氏の話は、DeNAが比較的最近買収したngmocoという会社が開発したX-Platformゲームエンジン「ngcore」に関するもの。

【17-E-3】
Hadoop:黄色い象使いへの道 ~「Hadoop徹底入門」より~
下垣徹 氏

一番才気を感じさせるスピーチでしたで賞をあげるとしたらこの人。
短い時間に盛りだくさんの内容で、比喩をうまく使いながらHadoopの全体像と「Hadoop徹底入門」の構成、ページ数の関係で盛り込めなかったところなどを説明していく。

【17-A-4】
大規模Webサービスのためのデータベース技術の現在・未来
松信嘉範 氏

大規模Webサービスのボトルネックであるマルチスレーブへのレプリケーションを、PCI-ExpressのSSD採用によるIOPSアップにより解決すると今度はボトルネックがマスタやCPUやネットワークに移っていって・・・というようなお話。ザ・エンジニア!という感じでスピーチも上手。

【17-E-5】
Cassandraで見るNoSQL
小林隆 氏

NoSQLはNot only SQL。RDBMSよりNoSQLというんじゃなく住み分けが大事だと。
よく「重要」を「でかい」と表現していた。

【17-A-6】
Smartphone X-Platform 開発
近藤和弘 氏 / 上条晃宏 氏 / 増井雄一郎 氏

web+db press #61 2/24発売!titanium特集。
いくつかの描画エンジンによるフレームレートと描画オブジェクト数のグラフが印象的。
js+canvasは現段階では非常に遅い、objectiveCのようなnativeは非常に早いがdevice依存。
中間の策としてtitanium mobile。ある程度までなら十分なフレームレートでX-device、またjsで書ける。

18日に見たもの。
【18-A-1】
ハッカー中心の企業文化を日本に根付かせる
よしおかひろたか 氏

Linuxカーネル読書会などで有名な人(という話を聞いた)。
メモから引用:
統制の種類には功利的、強制的、規範的なものがある。
『超マシン誕生』『洗脳的マネジメント』
許可を求めるな、謝罪せよ。

ハッカーは「自ら行動する人」であり、行動はプログラミングだけとは限らないと。
シリコンバレー感たっぷりのスピーチ。

【18-A-2】
次世代ジオロケーションサービスの開発手法
佐藤伸介 氏

Yahoo! Open Local Platformの話。A-1が面白すぎたのであまり印象に残っていない。

【18-A-3】
スマートフォン向けソーシャルアプリケーション開発の現在
伊藤直也 氏

ほんとは「SilverlightとAzureで魅せる未来」を見る予定だったんだけど
rakuten_saitama(twitter)がこっち見る1手でしょと言うのでついていった。
なんかこのへんからメモが適当になっているが・・・
taglet NFC共有 OpenFeint unity(jsだけじゃなくC#も使えるとな)

【18-A-4】
ウェブアプリケーション関連技術5年間の変遷とこれからのはなし
藤本真樹 氏

5年前はGreeではこんなハード・スペックでこんなバージョンのミドルウェア・言語・フレームワークを使っていたよ・・・こうしてみると思ったより進歩してないね。という感じの話。
資料をみて復習しないと思い出せない。

【18-A-5】
前例のないソフトウェアを作る! コミPo!開発秘話
小野知之 氏 / 田中圭一 氏

休憩時間から「コミポコミポ」という歌が無限リピートされていて、気分転換ぐらいのつもりでいたがかなり面白かった!田中圭一さんというのは漫画家で、ふだん絵を描かない人がカンタンにマンガを(ビジネス用途まで想定してるようだ)作れるようなソフトがほしいということで、ウェブテクノロジさんと一緒になって要件定義をしたりモックアップの作成をしたらしい。ウェブテクノロジさんといえば減色エンジンや携帯向け画像変換ツールを開発しているところ。これはちょっと、記憶に残ったよ。

【18-B-6】
Chrome、Chrome OSとChrome Web Store
北村英志 氏 / 及川卓也 氏

及川氏にベストスピーチ賞をあげたい。何回も話しているので早口になってしまう・・・と本人が言っていたので、慣れてるってことなんだろうけどね。さて、Chrome OSの思想は分かるんだけども、あれがほしいかと言われると躊躇してしまう。確かに今のwindows pcは、不要といって差し支えないくらいたくさんの機能がゴテゴテしているが、ではChrome OS搭載PCが進化していった先にはどんな便利なPCがあると、彼らは思い描いているんだろう?その説明があったほうがいいと思った。

ヒトの繁栄について

もし人類が未来永劫に渡って絶滅しないことが保証されていたとしたら。

例えば仮に人間個人が、グーグルのBig-Table上の単一オブジェクトみたいな存在になり、しかもそのインフラが宇宙の隅々まで行き渡っており、別の宇宙にある同様のインフラと通信・同期することすら可能であるとすれば、だいたい「絶滅しない条件」が整っていると言えるだろう。というかそういうことにしよう。そうなった時、 ーもはや彼らは人間と呼べない感じになってしまっているので、仮想人間と呼ぼうー 仮想人類は「何のためにここまで増えたのか?」と思わないだろうか?

ここで、仮想人類は何人の独立した仮想個人から構成されるのがベストか?という問題を考える
{*「独立した」というのは、分散データ(バックアップ)を含まないという意味。「仮想人類」は、仮想人間の一人一人(仮想個人)から成る集団のこと }。
素朴な言葉で言えば、世界が100人の村であるのと、数億の国の集合であるのとではどちらがいいか?ということである。

なぜ増える必要があるのか?この疑問に対する冷静な回答の一つは、「全体として増えるのは単なる結果であって、個別の生殖活動が行われる動機は、個人的とさえ言えるほど小さい理由である」というものだろう。そうだとすれば、人類は何も考えずにその規模を拡大していることになる。しかしながら、そのことが問題になるのは、単にヒトの生息環境として用意されているのがこの地球しか今のところないからである。

つまり私たちは、非常に差し迫った環境問題以外については、「何も考えずに規模を拡大している」ことに対して何の内省も行っていないのである。仮想人類の文脈では生息環境の広さに関する制限はないので、この「内省」が行われやすくなると思われる。何人の村ならいいのか?100人の村より60億人の村のほうが、あるいはもっと大人数の村のほうが幸せな社会だと言えるのか?逆に、何人であろうと
大した相違はなくて、むしろゼロでも価値は同じなのではないか、といったような内省である。

このように考えるのは、あまり現実主義的ではないように映るし、実際その通りだと思う。しかしながら、人生に意味はあると考える人々にとっては、この問題は無意味ではないだろう。何しろ、一人一人の人生にオリジナルな意味があるのなら、100人の村より60億人の村のほうが、意味の総量は多くなるに決まっているのだから。

そう考える一方、多ければ多いほど良いとも思えないだろう。よって、「人生には意味がないことにする」か、「(ゼロから無限の間において)ちょうど良い繁栄規模はこれである、という説得力ある説明を見つけだす」か、「別のシナリオを考える」か、以上のうちいずれかの方針を採って考えを進めなければならない。

個人的には、最後の選択肢を考えているが・・・気が向いたら書くことにする。

現実と小説

今日の世界文学ワンダーランドはジョン・アップダイクの『クーデター』だった。著者はアフリカに、アフリカのイメージを代表するいかにもアフリカらしい架空の国を作り、そこからの視点でアメリカを風刺した。僕はかなり最近まで小説を軽視してきたので、少し前なら「国まで架空なんじゃ、読んでも何の得もない」と思っただろう。世の中には特定の小説について読書体験を共有し、そこに登場する人物や概念について議論をする人たちがいる。一体その議論は何だろう、何の意味があるのかと。

でも今では、逆に現実についての議論は何がそんなに(小説についての議論に比べて)偉いのかと疑うようになってきている。抽象的な言葉を用いた議論は本来仮想的なものだ。現実にある複数の現象・パターンに名前を設定し、それを文法というテンプレートに入れ込んで文章を作る。文章と別の文章を交換してコミュニケーションをし、何らかの合意に至る。なるほど役に立つ。しかし小説についての議論でも、同程度に合意に至るだろう。その合意は、一定範囲の文脈中において特定の命題が真であるかどうかに関する合意であり、その点では現実でも小説でも変わりがない。

ただしその特定の命題なるものが、現実について議論される際には、真であるか偽であるかが実在人物の生活に影響を与え、小説について議論される際には、真であっても偽であっても実はどうでもよいというあたりが相違点であろう。しかしながら、ここから直ちに現実についての議論のほうが現実的に重要だと言うことはできない。なぜなら、結論が実際の利害に直結しないということは議論の展開に自由度をもたらすからである。

実際の利害について興味がある私たちは、今までにない新しいものを作りだすことに興味を持っている。新しいものが誕生すると利害関係に影響を与えるからだ。ここで、もし議論が・・・一人の頭の中でのみなされる議論、つまり思考も含め・・・その展開に強い制限を加えられていたらどうだろう。新しいアイディアが自分にとって有益かどうかを考える際にはまずタネをたくさん用意しなければならないというのに、現実に正しいことからの演繹でしか選択肢を手繰り寄せられないのでは非常に効率が悪い。

小説中にでてくる言葉も現実に話される言葉も、それらを構成する単語に分解してしまえば区別がつかない。組み合わせ方に強い制限を課したものが現実的な言葉であって、逆に最低限の制限しか課さないものが小説的な言葉である。この自由度によって小説は多くのタネを生み、例えその多くが現実に役に立たないものだとしても、何%かが新種の有用なアイディアとして生き残る。

小説がいくら架空の話だといっても、人間は全く現実に即していない世界を考えることはできない。現実についての話がいくら現実的に感じても、人間は完璧に現実を頭の中に(あるいは紙の上に)再現することはできない。そういうわけで両者は互いに歩み寄って、私たちが考えているよりずっと近い距離に並んでいる。

『博士の愛した数式』レビュー

前途有望な数学博士が交通事故で脳に障害を受け、80分しか記憶が続かない体になってしまう。彼のところへ家政婦としてやってきた女性(以下、家政婦さん)とその息子・ルートとの心の交流。基本的にはそれだけの話だが、延々と続く3人のやりとりを見ているうちに、80分しか記憶がもたないのを自覚して毎日を過ごすのはどんな感じなんだろうと想像することになり、それが生み出す膨大な行間が単調なストーリーに厚みを加えている。

博士は80分しか記憶がもたないので、重要なことは全て紙にメモして自分の体に貼り付ける。家政婦さんが尋ねてくる時は博士にとって毎回初対面なので、「新しい家政婦さん」と書かれた似顔絵つきのメモを見て既に知り合いであることを認識する。彼の記憶は、交通事故に遭う直前における全記憶と、直近 80分の記憶、体に貼り付けられたメモや数学のことを記したノートなどの外部記憶によって構成されている。

彼の80分を1サイクルとし、新しいサイクルが始まった直後について考えてみよう。このとき彼は、新しいサイクルが始まったという事実を認識することはできない。彼は習慣的な動作によって「僕の記憶は80分しかもたない」と書かれたメモを見る。そして初めて、そのサイクル内で博士は自分の障害を認識する。

次に彼はニュースや新聞で現在の日時を確認したり、書いた覚えのない自分の筆跡がノートに記されているのを見て、メモの真実性を強化するだろう。僕の記憶は80分しかもたない。彼のサイクルは深い悲しみから始まり、しかもサイクルを経るごとに、忘れてしまった(と彼が認識する)記憶の量が増えていく。

サイクルの中程で、彼は家政婦さんとルートとの楽しい時を過ごす。彼は子供が大好きであり、また家政婦さんも、博士のところに通うたびに数学に対する興味をもって話を聞いてくれるようになる。しかし彼は今いるサイクルの開始時刻が分かっているであろうから、あと何分でこのサイクルが終了するかも分かっていると思われる。楽しければ楽しいほど恐怖も大きいだろう。

サイクルの終了間際、小説での描写による博士は非常に穏やかだが、もし彼の過ごした80分弱が非常に楽しい時間だったなら、次のサイクルの自分にメッセージを残そうとせずにいられるだろうか。しかし濃密な体験とそのアウトプットを両方満足に完了するには、80分は短すぎる時間である。つまり彼は、濃密な体験を望まないだろう。彼が体中にメモを貼り新しいメモをどんどん追加していくのは、記憶をつなごうとする欲求の現れであろうから、次の自分が瞬時に取り込める類の情報を残そうとすると思われる。それが数学である。

もし彼が記憶障害である事実を知らなければ幸せだろうかと、ふと考えてしまう。その事実を知るのを遅らせるのは簡単なことだ。「僕の記憶は 80分しかもたない」と書かれたメモを、家政婦さんがコッソリ取り外してしまえばよい。しかし彼の記憶は遠い昔の状態で止まっているから、現在日時を知ったりノートに覚えのないことが大量に書かれていたり、自分の手が年老いていると感じるだけで彼の苦しみは開始されるだろう。

現実から隔離された部屋に、博士が交通事故に会った翌日の日時を表示するデジタル時計があり、博士が書いたメモやノートは全てコッソリ捨ててしまう家政婦さんがいるとしよう。それでもなお、彼が年をとっているという致命的な問題は克服できない。もし彼がそんな部屋にいるとしたら、自分が年をとっている理由が全く分からず、しかもそのことを口先でごまかそうとする見知らぬ家政婦がいるのみなのである。

そんな状況に人は耐えられるだろうか?そう考えてみると、「僕の記憶は80分しかもたない」と書かれたメモは苦しみの元凶ではなく、どの道やってくる苦しみを最もマシにしてくれる鎮痛剤なのである。80分しか記憶がもたないことが分かれば、彼は現実から受け取る情報と自分の状態とのギャップをすぐに理解するだろう。数学者にとって、あるいは多くの人間にとって、分からないという事実から発生する不安ほど苦しいものはない。

この小説には博士が感じるであろう上述のような苦しみがほとんど描かれていない。彼の数学に対する純粋な思い入れや子供に対する優しさ、数列の美しさ、そういった綺麗なものだけで出来上がってしまっているのが残念に思える。著者が書きたかったのは数学のエレガンスと数学者の美学なのだろうが、記憶障害は小説を盛り上げるために気まぐれで振りかけられるほど手軽な調味料ではない。ある状況が現実世界で実現した場合に当然発生すると予想される現象は、類似した状況が実現している小説世界においても発生しなければならない。そうしないのであれば、紛らわしいから現実ベースの小説は書かないほうがいい。