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2012年12月15日土曜日

決断力はどれくらい偉いのか

僕は以前から、決断力という言葉に違和感を覚えていた。
例えば誰かに「100円か500円どちらか好きなほうあげるけど、どっちがいい?」と聞かれて迷う人っているんだろうか。ほとんどの人は500円と即答するだろうし、
万が一「500円もらったら可哀想だ」と考える人がいるとしても(500円ほしいという欲望に打ち勝つために普通の人より時間はかかるであろうものの)そんなに迷わず100円と答えるだろう。つまりこの質問に答える場合は決断力の出番がない。

では夕飯のメニューを決める場合はどうだろう。カレーにするか、ステーキにするか。
どちらも好物なら迷うだろう。どちらも久しぶりなら迷うだろう。一日の栄養バランスを考えなければ迷うだろう。しかし逆にいうと「A:一方だけが好物」か「B:一方だけが久しぶり」か「C:一方だけが一日の栄養バランスを満たす」ならば迷いにくい。

つまり決断力があるように見える人とは、次のXタイプとYタイプがいるのである。
Xタイプ:選択肢の中からランダムに行動を選ぶのが速い人
Yタイプ:A・B・Cなどいずれかの前提を、カレーまたはステーキのどちらか一方に決める十分な理由として信じられる人

500円を選んだ時は「100円より500円もらったほうが得という前提を、500円もらうことにする十分な理由として信じた」のであり、これはYタイプと同じである。また、この例では決断力の出番はなかったのだから、Yタイプは決断力を使っていないことになる。それでもYタイプは「決断力があるように見える人」なので世間的には決断力がある人と言われる。

僕が感じた違和感はそういうことである。決断力が、印象通りのカッコいい言葉だとするならば、XやYの能力はカッコいい決断力だとは評価しにくい。ここから、決断力に本来の地位を取り戻させるためにもう少し突っ込んで考えてみる。

Yタイプに属する人「Y1」は、「A1:カレーが大好物(肉は普通)」であるとしよう。Y1は夕飯をカレーに決める理由として、A1を十分なものとして信じた。しかしハッキリ言って、ただ1度の夕飯のメニューなんてカレーでも肉でも問題はない。だからあまり真剣に考えなくても(A・B・Cを総合的に比較検討しなくても)信じることができる。

では、自分の将来に重大な違いを与える選択肢から選ぶ場合はどうだろう。例えば会社Nと会社Mから就職先を選ぶとする。Nに可愛い子犬がいたからといって、それを十分な理由として信じられる人はまずいない。Nの給料がMの給料より高ければどうか?この場合は子犬より魅力的かも知れないが、それだけでNを選ぶ十分な理由になるかは人によるだろう。

それだけで十分な理由になる人は、そうでない人より決断力が高いのだろうか。
重大事なのに総合判断をしていないという意味で、前者の選択は常識的に見て軽すぎる。
だからこれはカッコいい決断力ではない。では、MよりNが優れているという総合判断をそれぞれ独自に行なった2人の人物PとQがいたとして、Pは自分の判断を信じて入社を決意するのに3時間かかり、Qは一週間かかったとしたらどうか。この場合、PはQよりカッコいい決断力があるように見える。

しかし、そう決めつける前に2人の総合判断の内容を比較しなければならない。Pの判断が常識的に見て軽すぎない内容であるならば、3時間という数字はやはり常識的に見て小さいのでPには一般的決断力があると見てよいだろう。しかしQがPより決断力が鈍いかどうかは分からない。なぜならQは、Pより多くの事実を確認・比較し自分のニーズとよくよく照らしあわせて決めたかもしれないからである。そうであればQはPより、Nという会社に対して適性がある可能性が高い。すると急に、Pの一般的決断力が色あせて見えてくる。

色あせて見えたので、やはりPの決断力はカッコいいタイプではないようだ。
ではQはカッコいい決断力を持っていたのか?PとQは総合判断の内容が違っていたので、比較することができない。一週間という数字も、常識的に見て長いのか短いのか分からない。そこで、Qと似ている別人Oを用意しよう。彼もQと同様に独自に総合判断を行い、しかもQと同等の深い検討をしたとする。また同様に「自分が入社する対象としてMよりNが優れている」という結論を下した。

OもQと同様に一旦はその結論の正しさを信じたが、「部分的にNよりMが優れている点があるのも確かだし・・・」と迷い始めた。迷って迷って、三週間かけて入社を決意したとする。この場合、Oの迷いは女々しいだけであるからQより優れている点が何もない。とりあえず他者との比較によって、カッコいい決断力を持つ人物の存在が確認された。

ここに至り、我々はYタイプをさらに分類する必要性を知った。
Yタイプ:A・B・Cなどいずれかの前提を、カレーまたはステーキのどちらか一方に決める十分な理由として信じられる人

Yαタイプ:しょうもない理由でもその正しさを信じられる人
Yβタイプ:理由の正しさを十分に検証する姿勢を持ちながら、その検証をパスした結論を実行に移す覚悟が迷わず出来る人

つまり本当の決断力を持っているのはYβタイプである。そして僕は「(相談やチェックリストなどの方法も使いつつ)自分を騙さず、十分に検証した結論が一旦出たと思ったならば迷わずそれに従うという"心の中の取り決め"」が即ち決断力の正体であると主張する。

これによって一応は「"決断力"に本来の地位を取り戻させる」試みは成功したと考えるが、それでもやはり以前から感じていた違和感も妥当なものだと思う。なぜなら決断力は、単に上記のような"心の中の取り決め"に従うだけで行使したことになるからである。決断力という言葉が持つ世間的なカッコ良さはそれを行使するために必要なエネルギーが源泉だという印象があるが、これは一概に正しくない。十分な検証を行うのにエネルギーが大量に必要なことは確かにあるが、ほとんど必要ないことも多いからである。

経験や学習は、A・B・Cなどの前提を導き出し、それらを総合的に比較検討する速度と正確性を上げる方向に作用する。だから、経験や学習によって十分な知識を得ている人はそうでない人より決断力が上がるのである。知識の補助を得て為される決断はカッコいいタイプではあるものの、大したエネルギーは使わない。

一方「"心の中の取り決め"に迷わず従おうとしても躊躇せざるを得ない」ような重大な責任を伴う行為については、いくら知識の補助があっても大量のエネルギーが必要である。そのようなエネルギーを惜しげなく出すことが正真正銘の決断だと思うので、そこらへんに転がっているカッコいいタイプの決断を「決断」と呼ぶことに違和感を禁じ得ないのである。