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2011年2月20日日曜日

『博士の愛した数式』レビュー

前途有望な数学博士が交通事故で脳に障害を受け、80分しか記憶が続かない体になってしまう。彼のところへ家政婦としてやってきた女性(以下、家政婦さん)とその息子・ルートとの心の交流。基本的にはそれだけの話だが、延々と続く3人のやりとりを見ているうちに、80分しか記憶がもたないのを自覚して毎日を過ごすのはどんな感じなんだろうと想像することになり、それが生み出す膨大な行間が単調なストーリーに厚みを加えている。

博士は80分しか記憶がもたないので、重要なことは全て紙にメモして自分の体に貼り付ける。家政婦さんが尋ねてくる時は博士にとって毎回初対面なので、「新しい家政婦さん」と書かれた似顔絵つきのメモを見て既に知り合いであることを認識する。彼の記憶は、交通事故に遭う直前における全記憶と、直近 80分の記憶、体に貼り付けられたメモや数学のことを記したノートなどの外部記憶によって構成されている。

彼の80分を1サイクルとし、新しいサイクルが始まった直後について考えてみよう。このとき彼は、新しいサイクルが始まったという事実を認識することはできない。彼は習慣的な動作によって「僕の記憶は80分しかもたない」と書かれたメモを見る。そして初めて、そのサイクル内で博士は自分の障害を認識する。

次に彼はニュースや新聞で現在の日時を確認したり、書いた覚えのない自分の筆跡がノートに記されているのを見て、メモの真実性を強化するだろう。僕の記憶は80分しかもたない。彼のサイクルは深い悲しみから始まり、しかもサイクルを経るごとに、忘れてしまった(と彼が認識する)記憶の量が増えていく。

サイクルの中程で、彼は家政婦さんとルートとの楽しい時を過ごす。彼は子供が大好きであり、また家政婦さんも、博士のところに通うたびに数学に対する興味をもって話を聞いてくれるようになる。しかし彼は今いるサイクルの開始時刻が分かっているであろうから、あと何分でこのサイクルが終了するかも分かっていると思われる。楽しければ楽しいほど恐怖も大きいだろう。

サイクルの終了間際、小説での描写による博士は非常に穏やかだが、もし彼の過ごした80分弱が非常に楽しい時間だったなら、次のサイクルの自分にメッセージを残そうとせずにいられるだろうか。しかし濃密な体験とそのアウトプットを両方満足に完了するには、80分は短すぎる時間である。つまり彼は、濃密な体験を望まないだろう。彼が体中にメモを貼り新しいメモをどんどん追加していくのは、記憶をつなごうとする欲求の現れであろうから、次の自分が瞬時に取り込める類の情報を残そうとすると思われる。それが数学である。

もし彼が記憶障害である事実を知らなければ幸せだろうかと、ふと考えてしまう。その事実を知るのを遅らせるのは簡単なことだ。「僕の記憶は 80分しかもたない」と書かれたメモを、家政婦さんがコッソリ取り外してしまえばよい。しかし彼の記憶は遠い昔の状態で止まっているから、現在日時を知ったりノートに覚えのないことが大量に書かれていたり、自分の手が年老いていると感じるだけで彼の苦しみは開始されるだろう。

現実から隔離された部屋に、博士が交通事故に会った翌日の日時を表示するデジタル時計があり、博士が書いたメモやノートは全てコッソリ捨ててしまう家政婦さんがいるとしよう。それでもなお、彼が年をとっているという致命的な問題は克服できない。もし彼がそんな部屋にいるとしたら、自分が年をとっている理由が全く分からず、しかもそのことを口先でごまかそうとする見知らぬ家政婦がいるのみなのである。

そんな状況に人は耐えられるだろうか?そう考えてみると、「僕の記憶は80分しかもたない」と書かれたメモは苦しみの元凶ではなく、どの道やってくる苦しみを最もマシにしてくれる鎮痛剤なのである。80分しか記憶がもたないことが分かれば、彼は現実から受け取る情報と自分の状態とのギャップをすぐに理解するだろう。数学者にとって、あるいは多くの人間にとって、分からないという事実から発生する不安ほど苦しいものはない。

この小説には博士が感じるであろう上述のような苦しみがほとんど描かれていない。彼の数学に対する純粋な思い入れや子供に対する優しさ、数列の美しさ、そういった綺麗なものだけで出来上がってしまっているのが残念に思える。著者が書きたかったのは数学のエレガンスと数学者の美学なのだろうが、記憶障害は小説を盛り上げるために気まぐれで振りかけられるほど手軽な調味料ではない。ある状況が現実世界で実現した場合に当然発生すると予想される現象は、類似した状況が実現している小説世界においても発生しなければならない。そうしないのであれば、紛らわしいから現実ベースの小説は書かないほうがいい。