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2011年2月20日日曜日

現実と小説

今日の世界文学ワンダーランドはジョン・アップダイクの『クーデター』だった。著者はアフリカに、アフリカのイメージを代表するいかにもアフリカらしい架空の国を作り、そこからの視点でアメリカを風刺した。僕はかなり最近まで小説を軽視してきたので、少し前なら「国まで架空なんじゃ、読んでも何の得もない」と思っただろう。世の中には特定の小説について読書体験を共有し、そこに登場する人物や概念について議論をする人たちがいる。一体その議論は何だろう、何の意味があるのかと。

でも今では、逆に現実についての議論は何がそんなに(小説についての議論に比べて)偉いのかと疑うようになってきている。抽象的な言葉を用いた議論は本来仮想的なものだ。現実にある複数の現象・パターンに名前を設定し、それを文法というテンプレートに入れ込んで文章を作る。文章と別の文章を交換してコミュニケーションをし、何らかの合意に至る。なるほど役に立つ。しかし小説についての議論でも、同程度に合意に至るだろう。その合意は、一定範囲の文脈中において特定の命題が真であるかどうかに関する合意であり、その点では現実でも小説でも変わりがない。

ただしその特定の命題なるものが、現実について議論される際には、真であるか偽であるかが実在人物の生活に影響を与え、小説について議論される際には、真であっても偽であっても実はどうでもよいというあたりが相違点であろう。しかしながら、ここから直ちに現実についての議論のほうが現実的に重要だと言うことはできない。なぜなら、結論が実際の利害に直結しないということは議論の展開に自由度をもたらすからである。

実際の利害について興味がある私たちは、今までにない新しいものを作りだすことに興味を持っている。新しいものが誕生すると利害関係に影響を与えるからだ。ここで、もし議論が・・・一人の頭の中でのみなされる議論、つまり思考も含め・・・その展開に強い制限を加えられていたらどうだろう。新しいアイディアが自分にとって有益かどうかを考える際にはまずタネをたくさん用意しなければならないというのに、現実に正しいことからの演繹でしか選択肢を手繰り寄せられないのでは非常に効率が悪い。

小説中にでてくる言葉も現実に話される言葉も、それらを構成する単語に分解してしまえば区別がつかない。組み合わせ方に強い制限を課したものが現実的な言葉であって、逆に最低限の制限しか課さないものが小説的な言葉である。この自由度によって小説は多くのタネを生み、例えその多くが現実に役に立たないものだとしても、何%かが新種の有用なアイディアとして生き残る。

小説がいくら架空の話だといっても、人間は全く現実に即していない世界を考えることはできない。現実についての話がいくら現実的に感じても、人間は完璧に現実を頭の中に(あるいは紙の上に)再現することはできない。そういうわけで両者は互いに歩み寄って、私たちが考えているよりずっと近い距離に並んでいる。