Lは中国人にも変わっていると言われる中国人である。中国嫁日記の作者が金持ちの知人(嫁の女友達)を妬んだ時、嫁は「あの家が金持ちなのは私達と全く関係ない」という意味のことを言ったらしいが(4コマ漫画の嫁コメントに書いてある)、Lはそのような人格者ではない。だからこそツッコミどころが多くてブログ的には助かるが、今回はやや持ち上げる話をしよう。
Lは何しろ中国人で、知り合った当時まだ来日3年目であり、これといって共通の趣味があるわけでもなく、平均的女子と比較して自分から積極的に質問をしてくることもなかった。
そのため僕は色々と質問してLの情報を得る必要があったのだが、まぁ何週間かそんなことを繰り返していれば情報の偏りが起こるわけである。つまり僕がLの情報をたくさん持っているのに対してLは僕の情報をあまり持っていない。そのような状況に感じられた。そうなれば、今度は自分のことを語る必要がでてくる。
Lが積極的に質問しないのは、今思えば人見知りのせいもあった。正確に言えば人見知りが半分、確信犯的な様子見が半分といったところだろうか。だから実際には、ちょっと質問すれば大量に答えが返ってくる状態になるのに時間はかからなかった。もちろん、まだお互いの性格やバックグラウンドの把握が浅く、Lの独特な言葉遣いを認識する手間もあって、大量の返答がそのまま大量の情報として蓄積されたわけではない。しかしバックグラウンドや言葉のクセを学習することは、僕がLを理解する役に立ったと言える。
大量の返答、それはやはり一種のプレッシャーとして、今度はこちらの情報を要求する。
そうして僕は自分のことを語るようになり、やっと普通のカップルになった感じがした。
お互いSEであるということ以外に共通点がほとんどなく、相手の経歴を理解するために学習しなければならない事柄がまずあるという状況が、日本人に対するより本気で質問する必要性を生むこととなった。逆もまた然りで、自分を理解してもらうのに苦労を要する状況が、あっさり語ることを許さなかったのだ。
そういう経験をして思うのが本稿のタイトルにもある、「他人を知りたければまず自分を語れ」ということである。例えばうちの親は父母両方とも、息子に彼自身のことを話させるのが苦手である。これは単に僕が自分自身のことを話すのが苦手なのだろうと思ってきたが、どうもそれだけではなさそうだ。親が、彼ら自身のことを話さないものだから子供にとって手本がなく、情報の偏りも起きないためにそれを是正しなければならないというプレッシャーが発生しない。それがもう半分の原因だろうと考えている。
「学校で何があったか?」と質問して「別に」と答えられる風景はドラマでも馴染みがある。
子供には広範囲に答えてもらいたいものだから、親はなるべく漠然とした質問をする。しかしながらその質問をする労力と、それに答えるため広範囲のことを整然と文章にまとめてテンポよく話す労力を比べてみる必要がある。前者は後者より遥かにラクで、それは子供が「質問には正しく答えなければならない」と思っているほど顕著である。子供によほどのサービス精神がなければこの不公平は克服できない。
従って親は、漠然とした質問に答えてくれない子供に対して、ピンポイントに複数の具体的質問をすることが有効となる。これは親子の間でなくても当てはまる。欲しい範囲についての回答を得るために、相手が無理のない粒度に質問を分割するのである。それくらいの労力を払ってやっと会話は対等となる。
異性と付き合いたいと思った時、仕事でうまく意思疎通したい相手がいる時、大学で先生に質問したいことがある時など、質問者が下手に出る場面では彼のサービス精神は旺盛である。彼はそのことを、家族に対する時には忘れてしまっている。家族間はずっと対等の関係なのだから下手に出る必要ないだろうと言っても、家族が彼の下手に出る義理だって全くないのだ。「惚れた弱み」という言葉があるように、質問したい側が常に弱い、そう思っておいたほうが対話はうまくいく。
で、ピンポイントに複数の具体的質問に分割できるようなことはそれでいいとして、もう少し難しい問題がある。例えば相手のストーリーを大局的に語ってほしいようなケース。ある程度大まかに分割することは可能かもしれないが、この場合それで答えやすい質問になるかどうか分からないので、分割作業自体を相手に任せてしまったほうがマシっぽい。となると仮に親が、小さい子供にこのようなことを答えさせようと思ったら一朝一夕には無理そうだ。
この時登場するのが「まず自分を語れ」論である。平素から親が、親自身のことについて小分けでもいいから子供に話しておくと、子供は自分の位置づけが分かるようになる。つまり、まずこのようなバックグラウンドを持った親がいて、そして自分がいるという連関を理解する。親が現在のような考え方をするのはそのようなバックグラウンドを持っていたからだと理解できれば、さらに自分自身を説明する材料が増すだろう。
小分けにされた親情報をもらった子供は、僕がLに対して行ったように、小分けにして自分の情報を返すだろう。その蓄積は親にとって、子供のストーリーを大局的に語ってもらったのと同じことである。これを逃した親は、一気に情報を取り返そうとしてドツボにはまる。情報を小分けにして提供してこなかった人が出来ることは、相手に全てを説明させることではなく、遅まきながらでも小分け情報提供を開始することである。
このこともやはり、親子関係以外にも拡張できる。質問者Aと回答者Bがおり、質問aが質問者Aの発したものである限り、Aに関する情報の多くはaに答えるために役立つ。なぜならaが発せられた文脈というのは必ずAの人生における特定のタイミングであり、Aがその時点で「Bに対して」その質問をした理由が存在するからである。それを考慮することはBの回答bに厚みを加えるだろう。
さて、Lが僕にとって1人の恩人であるのは、Lとの会話を通してL側の正常な親子関係が透けて見え、それによって「まず自分を語れ」などの気づきを得たことによる。中国の家族関係、親族関係は、まぁ色々とイザコザはあるっぽいものの、それも含めて昔の日本によく似ている感覚がある。日本と中国のどちらが正常とも言えないが、現代に生きながら過去の疑似体験もできるのであれば、それは有り難いことだ。
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2014年1月4日土曜日
2013年1月21日月曜日
社会的事実って本当に存在するのか
中山康雄著『科学哲学入門』を読んで思ったことを書いてみようと思う。
それは「社会的事実って本当に存在するのか」ということであるが、その前に簡単な例として「あなたの前にテレビは存在するのか」と問うてみよう。テレビっぽい像があなたの目の前に見えていて、あなたはそれがテレビであると確信しているものとする。また「存在する」は、「外部信号と認識パターンが一致している」という意味だとする。この場合テレビから発せられた光が外部信号であり、それがテレビという認識パターンと一致すると解釈されたわけである。
すると、あなたの前にテレビは存在していることになる。実際はそれが幻覚だったり、それはテレビではなくてパソコンのディスプレイだったりする可能性もあるのだが、ここでは「〜は存在するのか?」という問いは「それを問う、疑い深い人を納得させる」ためにあると位置づけているので、本人が存在を信じれば十分である。
次に「自由の女神は存在するのか」と問うてみよう。アメリカは日本から遠いので、簡単に行くことができない。あなたが自由の女神っぽい像を直接確認せずにそれが存在すると言うためには、「存在する」の定義を拡張しなくてはならない。つまり、「外部信号と認識パターンが一致している」状態が簡単に実現できないので、それが可能な人を信じることが必要となる。
直接的もしくは間接的に「自由の女神が存在する」と言っている人は多数いるので、もし自由の女神が存在しないならば彼らは嘘つき呼ばわりされ「本当は自由の女神は存在しない」という主張が声高になされるはずである。しかし実際はなされていない。このようなことから、あなたの代わりに自由の女神の存在を主張する人を信じる根拠が生まれる。拡張された定義は次のようなものである。「外部信号と認識パターンが一致している、信頼できる人がいる」。注意点として、信頼は妄信ではなく確かな根拠に基づく。
ではいよいよ「社会的事実」なるものを考える。『科学哲学入門』では例として、「およげ!たいやきくん」というタイトルの歌が流行したという事実をあげている。この手の事実の多くは、社会的事実と呼ぶのが相応しくないというのが本稿の主張である。まず、言葉の意味を確認しておく。テレビと自由の女神の例では、物理的事実の存在について定義した。社会的事実は(モノがあるという)物理的事実と違って、社会的に受け入れられている事実(などの、共有信念に依存する事実)を指す。
テレビが誰かの目の前にあることは、社会は関心を示さない。日本で歌が流行することについては日本文化の歴史に関わるので、関心を示す人が少なからずいる。そう考えるとたいやきくんの流行は物理的というより社会的と表現するのが適切であり、新聞などのデータを参照すると確かにそれは事実であるようだ。この事実の存在についても、先の定義が使える。
再掲:「外部信号と認識パターンが一致している、信頼できる人がいる」
この場合、外部信号とは「たいやきくんは流行した」という主張(発話)がなされる時の音声信号と考えればよい。しかしながら、共有信念に依存する事実が全てたいやきくんのように記録に残るわけではなく、むしろ少人数の集団の中で暗黙に了解されているようなケースのほうが圧倒的に多い。
中山の分類によれば事実は「物理的事実」「社会的事実」「内省的事実」の3つしかなく、また「集団の中で暗黙に了解される事実」は完全に(『科学哲学入門』に登場する)社会的事実の定義に当てはまる。しかしこれから見ていくように、暗黙的な社会的事実の存在は極めて認定が難しい。
例えば企業内において、何が許され何が許されない行為かを決めるのに明文化されたルールを参照することは稀である。部署によってメンバーが異なるので、ある部署で許されることが別の部署で許されなかったりする。暗黙的なものは多くの場合ルールの体をなしておらず、許す立場の人Aは許される立場の人Bの行為Xに対して何らか反応するだけである。その結果はAの内部状態(気分や考え方、Bに対する印象など)とXの内容と外部環境(タイミングやビジネスの状況)に依存する。
多くの場合、実際に存在するのは個々の「反応」である。反応が繰り返され分析可能な量に達したとき初めて、何らかの傾向があるという主張が行われ、(そんな事実はないと反撃される余地はあるものの)とりあえず事実化する。事実化すれば社会的事実とも呼べようが、例えば使い古された社会的事実は未来の世代にとって共有信念になっていない。
それでも、たいやきくんが流行した事実は存在するかと問われたら、未来の世代は検索エンジンを駆使するなどして「YES」と答えるだろう。つまり中山の、物理的でも内省的でもない事実は共有信念に依存するという主張はこのことと整合しない。もしくは、問われて答えるという反応まで共有信念の定義に含めるのであればネーミングが悪いし広義すぎる。
社会的事実という概念を導入することは、確かな存在であるところの「反応」に注目することを怠らせてしまう危険を伴う。先に述べたように、社会的事実はその認定まで「多量の反応を発生させる〜データ化して分析する〜傾向を主張する〜その傾向はないという反撃を退ける」という長い長い道のりがある。物理的事実や内省的事実と比べて、存在確認が面倒すぎるし不確かすぎる(明文化された社会的事実であるところの制度的事実は別として)。
そうしたものは事実というカテゴリーに属さないと言えば、事実の3分類は守られるだろう。しかし、個別の反応が物理的事実であるとしたら、それが大量に集まって社会的事実になるまでのプロセスにおいて、どの時点で転換が起きたのだろうか。もし転換など起きないのだとしたら、事実は2分類で十分となる。少なくとも、常に3分類を用いるのが有効とは思えない。
特定の社会的事実についても本稿では、「〜は存在するのか?」という問いは「それを問う、疑い深い人を納得させる」ためにあると位置づけている。共有信念などというものがなければ社会的事実は成立しないのだとしたら、私たちは彼を納得させるのに想像を絶する苦労をするだろう。しかし「世論調査のデータについて特定の傾向を指摘している人がいる」などという言明については議論を運びやすい。
共有信念的なものは、あるように見えるケースもあるだろう。しかし、それがなくても私たちは事実を語る。共有信念が出来上がっていることよりも、そうでないことのほうが議論になりやすく現実的に解決すべき問題はそちらのほうに多くある。科学哲学は楽をしないで、現実に踏み込むべきだろう。
それは「社会的事実って本当に存在するのか」ということであるが、その前に簡単な例として「あなたの前にテレビは存在するのか」と問うてみよう。テレビっぽい像があなたの目の前に見えていて、あなたはそれがテレビであると確信しているものとする。また「存在する」は、「外部信号と認識パターンが一致している」という意味だとする。この場合テレビから発せられた光が外部信号であり、それがテレビという認識パターンと一致すると解釈されたわけである。
すると、あなたの前にテレビは存在していることになる。実際はそれが幻覚だったり、それはテレビではなくてパソコンのディスプレイだったりする可能性もあるのだが、ここでは「〜は存在するのか?」という問いは「それを問う、疑い深い人を納得させる」ためにあると位置づけているので、本人が存在を信じれば十分である。
次に「自由の女神は存在するのか」と問うてみよう。アメリカは日本から遠いので、簡単に行くことができない。あなたが自由の女神っぽい像を直接確認せずにそれが存在すると言うためには、「存在する」の定義を拡張しなくてはならない。つまり、「外部信号と認識パターンが一致している」状態が簡単に実現できないので、それが可能な人を信じることが必要となる。
直接的もしくは間接的に「自由の女神が存在する」と言っている人は多数いるので、もし自由の女神が存在しないならば彼らは嘘つき呼ばわりされ「本当は自由の女神は存在しない」という主張が声高になされるはずである。しかし実際はなされていない。このようなことから、あなたの代わりに自由の女神の存在を主張する人を信じる根拠が生まれる。拡張された定義は次のようなものである。「外部信号と認識パターンが一致している、信頼できる人がいる」。注意点として、信頼は妄信ではなく確かな根拠に基づく。
ではいよいよ「社会的事実」なるものを考える。『科学哲学入門』では例として、「およげ!たいやきくん」というタイトルの歌が流行したという事実をあげている。この手の事実の多くは、社会的事実と呼ぶのが相応しくないというのが本稿の主張である。まず、言葉の意味を確認しておく。テレビと自由の女神の例では、物理的事実の存在について定義した。社会的事実は(モノがあるという)物理的事実と違って、社会的に受け入れられている事実(などの、共有信念に依存する事実)を指す。
テレビが誰かの目の前にあることは、社会は関心を示さない。日本で歌が流行することについては日本文化の歴史に関わるので、関心を示す人が少なからずいる。そう考えるとたいやきくんの流行は物理的というより社会的と表現するのが適切であり、新聞などのデータを参照すると確かにそれは事実であるようだ。この事実の存在についても、先の定義が使える。
再掲:「外部信号と認識パターンが一致している、信頼できる人がいる」
この場合、外部信号とは「たいやきくんは流行した」という主張(発話)がなされる時の音声信号と考えればよい。しかしながら、共有信念に依存する事実が全てたいやきくんのように記録に残るわけではなく、むしろ少人数の集団の中で暗黙に了解されているようなケースのほうが圧倒的に多い。
中山の分類によれば事実は「物理的事実」「社会的事実」「内省的事実」の3つしかなく、また「集団の中で暗黙に了解される事実」は完全に(『科学哲学入門』に登場する)社会的事実の定義に当てはまる。しかしこれから見ていくように、暗黙的な社会的事実の存在は極めて認定が難しい。
例えば企業内において、何が許され何が許されない行為かを決めるのに明文化されたルールを参照することは稀である。部署によってメンバーが異なるので、ある部署で許されることが別の部署で許されなかったりする。暗黙的なものは多くの場合ルールの体をなしておらず、許す立場の人Aは許される立場の人Bの行為Xに対して何らか反応するだけである。その結果はAの内部状態(気分や考え方、Bに対する印象など)とXの内容と外部環境(タイミングやビジネスの状況)に依存する。
多くの場合、実際に存在するのは個々の「反応」である。反応が繰り返され分析可能な量に達したとき初めて、何らかの傾向があるという主張が行われ、(そんな事実はないと反撃される余地はあるものの)とりあえず事実化する。事実化すれば社会的事実とも呼べようが、例えば使い古された社会的事実は未来の世代にとって共有信念になっていない。
それでも、たいやきくんが流行した事実は存在するかと問われたら、未来の世代は検索エンジンを駆使するなどして「YES」と答えるだろう。つまり中山の、物理的でも内省的でもない事実は共有信念に依存するという主張はこのことと整合しない。もしくは、問われて答えるという反応まで共有信念の定義に含めるのであればネーミングが悪いし広義すぎる。
社会的事実という概念を導入することは、確かな存在であるところの「反応」に注目することを怠らせてしまう危険を伴う。先に述べたように、社会的事実はその認定まで「多量の反応を発生させる〜データ化して分析する〜傾向を主張する〜その傾向はないという反撃を退ける」という長い長い道のりがある。物理的事実や内省的事実と比べて、存在確認が面倒すぎるし不確かすぎる(明文化された社会的事実であるところの制度的事実は別として)。
そうしたものは事実というカテゴリーに属さないと言えば、事実の3分類は守られるだろう。しかし、個別の反応が物理的事実であるとしたら、それが大量に集まって社会的事実になるまでのプロセスにおいて、どの時点で転換が起きたのだろうか。もし転換など起きないのだとしたら、事実は2分類で十分となる。少なくとも、常に3分類を用いるのが有効とは思えない。
特定の社会的事実についても本稿では、「〜は存在するのか?」という問いは「それを問う、疑い深い人を納得させる」ためにあると位置づけている。共有信念などというものがなければ社会的事実は成立しないのだとしたら、私たちは彼を納得させるのに想像を絶する苦労をするだろう。しかし「世論調査のデータについて特定の傾向を指摘している人がいる」などという言明については議論を運びやすい。
共有信念的なものは、あるように見えるケースもあるだろう。しかし、それがなくても私たちは事実を語る。共有信念が出来上がっていることよりも、そうでないことのほうが議論になりやすく現実的に解決すべき問題はそちらのほうに多くある。科学哲学は楽をしないで、現実に踏み込むべきだろう。
2012年12月15日土曜日
決断力はどれくらい偉いのか
僕は以前から、決断力という言葉に違和感を覚えていた。
例えば誰かに「100円か500円どちらか好きなほうあげるけど、どっちがいい?」と聞かれて迷う人っているんだろうか。ほとんどの人は500円と即答するだろうし、
万が一「500円もらったら可哀想だ」と考える人がいるとしても(500円ほしいという欲望に打ち勝つために普通の人より時間はかかるであろうものの)そんなに迷わず100円と答えるだろう。つまりこの質問に答える場合は決断力の出番がない。
では夕飯のメニューを決める場合はどうだろう。カレーにするか、ステーキにするか。
どちらも好物なら迷うだろう。どちらも久しぶりなら迷うだろう。一日の栄養バランスを考えなければ迷うだろう。しかし逆にいうと「A:一方だけが好物」か「B:一方だけが久しぶり」か「C:一方だけが一日の栄養バランスを満たす」ならば迷いにくい。
つまり決断力があるように見える人とは、次のXタイプとYタイプがいるのである。
Xタイプ:選択肢の中からランダムに行動を選ぶのが速い人
Yタイプ:A・B・Cなどいずれかの前提を、カレーまたはステーキのどちらか一方に決める十分な理由として信じられる人
500円を選んだ時は「100円より500円もらったほうが得という前提を、500円もらうことにする十分な理由として信じた」のであり、これはYタイプと同じである。また、この例では決断力の出番はなかったのだから、Yタイプは決断力を使っていないことになる。それでもYタイプは「決断力があるように見える人」なので世間的には決断力がある人と言われる。
僕が感じた違和感はそういうことである。決断力が、印象通りのカッコいい言葉だとするならば、XやYの能力はカッコいい決断力だとは評価しにくい。ここから、決断力に本来の地位を取り戻させるためにもう少し突っ込んで考えてみる。
Yタイプに属する人「Y1」は、「A1:カレーが大好物(肉は普通)」であるとしよう。Y1は夕飯をカレーに決める理由として、A1を十分なものとして信じた。しかしハッキリ言って、ただ1度の夕飯のメニューなんてカレーでも肉でも問題はない。だからあまり真剣に考えなくても(A・B・Cを総合的に比較検討しなくても)信じることができる。
では、自分の将来に重大な違いを与える選択肢から選ぶ場合はどうだろう。例えば会社Nと会社Mから就職先を選ぶとする。Nに可愛い子犬がいたからといって、それを十分な理由として信じられる人はまずいない。Nの給料がMの給料より高ければどうか?この場合は子犬より魅力的かも知れないが、それだけでNを選ぶ十分な理由になるかは人によるだろう。
それだけで十分な理由になる人は、そうでない人より決断力が高いのだろうか。
重大事なのに総合判断をしていないという意味で、前者の選択は常識的に見て軽すぎる。
だからこれはカッコいい決断力ではない。では、MよりNが優れているという総合判断をそれぞれ独自に行なった2人の人物PとQがいたとして、Pは自分の判断を信じて入社を決意するのに3時間かかり、Qは一週間かかったとしたらどうか。この場合、PはQよりカッコいい決断力があるように見える。
しかし、そう決めつける前に2人の総合判断の内容を比較しなければならない。Pの判断が常識的に見て軽すぎない内容であるならば、3時間という数字はやはり常識的に見て小さいのでPには一般的決断力があると見てよいだろう。しかしQがPより決断力が鈍いかどうかは分からない。なぜならQは、Pより多くの事実を確認・比較し自分のニーズとよくよく照らしあわせて決めたかもしれないからである。そうであればQはPより、Nという会社に対して適性がある可能性が高い。すると急に、Pの一般的決断力が色あせて見えてくる。
色あせて見えたので、やはりPの決断力はカッコいいタイプではないようだ。
ではQはカッコいい決断力を持っていたのか?PとQは総合判断の内容が違っていたので、比較することができない。一週間という数字も、常識的に見て長いのか短いのか分からない。そこで、Qと似ている別人Oを用意しよう。彼もQと同様に独自に総合判断を行い、しかもQと同等の深い検討をしたとする。また同様に「自分が入社する対象としてMよりNが優れている」という結論を下した。
OもQと同様に一旦はその結論の正しさを信じたが、「部分的にNよりMが優れている点があるのも確かだし・・・」と迷い始めた。迷って迷って、三週間かけて入社を決意したとする。この場合、Oの迷いは女々しいだけであるからQより優れている点が何もない。とりあえず他者との比較によって、カッコいい決断力を持つ人物の存在が確認された。
ここに至り、我々はYタイプをさらに分類する必要性を知った。
Yタイプ:A・B・Cなどいずれかの前提を、カレーまたはステーキのどちらか一方に決める十分な理由として信じられる人
↓
Yαタイプ:しょうもない理由でもその正しさを信じられる人
Yβタイプ:理由の正しさを十分に検証する姿勢を持ちながら、その検証をパスした結論を実行に移す覚悟が迷わず出来る人
つまり本当の決断力を持っているのはYβタイプである。そして僕は「(相談やチェックリストなどの方法も使いつつ)自分を騙さず、十分に検証した結論が一旦出たと思ったならば迷わずそれに従うという"心の中の取り決め"」が即ち決断力の正体であると主張する。
これによって一応は「"決断力"に本来の地位を取り戻させる」試みは成功したと考えるが、それでもやはり以前から感じていた違和感も妥当なものだと思う。なぜなら決断力は、単に上記のような"心の中の取り決め"に従うだけで行使したことになるからである。決断力という言葉が持つ世間的なカッコ良さはそれを行使するために必要なエネルギーが源泉だという印象があるが、これは一概に正しくない。十分な検証を行うのにエネルギーが大量に必要なことは確かにあるが、ほとんど必要ないことも多いからである。
経験や学習は、A・B・Cなどの前提を導き出し、それらを総合的に比較検討する速度と正確性を上げる方向に作用する。だから、経験や学習によって十分な知識を得ている人はそうでない人より決断力が上がるのである。知識の補助を得て為される決断はカッコいいタイプではあるものの、大したエネルギーは使わない。
一方「"心の中の取り決め"に迷わず従おうとしても躊躇せざるを得ない」ような重大な責任を伴う行為については、いくら知識の補助があっても大量のエネルギーが必要である。そのようなエネルギーを惜しげなく出すことが正真正銘の決断だと思うので、そこらへんに転がっているカッコいいタイプの決断を「決断」と呼ぶことに違和感を禁じ得ないのである。
例えば誰かに「100円か500円どちらか好きなほうあげるけど、どっちがいい?」と聞かれて迷う人っているんだろうか。ほとんどの人は500円と即答するだろうし、
万が一「500円もらったら可哀想だ」と考える人がいるとしても(500円ほしいという欲望に打ち勝つために普通の人より時間はかかるであろうものの)そんなに迷わず100円と答えるだろう。つまりこの質問に答える場合は決断力の出番がない。
では夕飯のメニューを決める場合はどうだろう。カレーにするか、ステーキにするか。
どちらも好物なら迷うだろう。どちらも久しぶりなら迷うだろう。一日の栄養バランスを考えなければ迷うだろう。しかし逆にいうと「A:一方だけが好物」か「B:一方だけが久しぶり」か「C:一方だけが一日の栄養バランスを満たす」ならば迷いにくい。
つまり決断力があるように見える人とは、次のXタイプとYタイプがいるのである。
Xタイプ:選択肢の中からランダムに行動を選ぶのが速い人
Yタイプ:A・B・Cなどいずれかの前提を、カレーまたはステーキのどちらか一方に決める十分な理由として信じられる人
500円を選んだ時は「100円より500円もらったほうが得という前提を、500円もらうことにする十分な理由として信じた」のであり、これはYタイプと同じである。また、この例では決断力の出番はなかったのだから、Yタイプは決断力を使っていないことになる。それでもYタイプは「決断力があるように見える人」なので世間的には決断力がある人と言われる。
僕が感じた違和感はそういうことである。決断力が、印象通りのカッコいい言葉だとするならば、XやYの能力はカッコいい決断力だとは評価しにくい。ここから、決断力に本来の地位を取り戻させるためにもう少し突っ込んで考えてみる。
Yタイプに属する人「Y1」は、「A1:カレーが大好物(肉は普通)」であるとしよう。Y1は夕飯をカレーに決める理由として、A1を十分なものとして信じた。しかしハッキリ言って、ただ1度の夕飯のメニューなんてカレーでも肉でも問題はない。だからあまり真剣に考えなくても(A・B・Cを総合的に比較検討しなくても)信じることができる。
では、自分の将来に重大な違いを与える選択肢から選ぶ場合はどうだろう。例えば会社Nと会社Mから就職先を選ぶとする。Nに可愛い子犬がいたからといって、それを十分な理由として信じられる人はまずいない。Nの給料がMの給料より高ければどうか?この場合は子犬より魅力的かも知れないが、それだけでNを選ぶ十分な理由になるかは人によるだろう。
それだけで十分な理由になる人は、そうでない人より決断力が高いのだろうか。
重大事なのに総合判断をしていないという意味で、前者の選択は常識的に見て軽すぎる。
だからこれはカッコいい決断力ではない。では、MよりNが優れているという総合判断をそれぞれ独自に行なった2人の人物PとQがいたとして、Pは自分の判断を信じて入社を決意するのに3時間かかり、Qは一週間かかったとしたらどうか。この場合、PはQよりカッコいい決断力があるように見える。
しかし、そう決めつける前に2人の総合判断の内容を比較しなければならない。Pの判断が常識的に見て軽すぎない内容であるならば、3時間という数字はやはり常識的に見て小さいのでPには一般的決断力があると見てよいだろう。しかしQがPより決断力が鈍いかどうかは分からない。なぜならQは、Pより多くの事実を確認・比較し自分のニーズとよくよく照らしあわせて決めたかもしれないからである。そうであればQはPより、Nという会社に対して適性がある可能性が高い。すると急に、Pの一般的決断力が色あせて見えてくる。
色あせて見えたので、やはりPの決断力はカッコいいタイプではないようだ。
ではQはカッコいい決断力を持っていたのか?PとQは総合判断の内容が違っていたので、比較することができない。一週間という数字も、常識的に見て長いのか短いのか分からない。そこで、Qと似ている別人Oを用意しよう。彼もQと同様に独自に総合判断を行い、しかもQと同等の深い検討をしたとする。また同様に「自分が入社する対象としてMよりNが優れている」という結論を下した。
OもQと同様に一旦はその結論の正しさを信じたが、「部分的にNよりMが優れている点があるのも確かだし・・・」と迷い始めた。迷って迷って、三週間かけて入社を決意したとする。この場合、Oの迷いは女々しいだけであるからQより優れている点が何もない。とりあえず他者との比較によって、カッコいい決断力を持つ人物の存在が確認された。
ここに至り、我々はYタイプをさらに分類する必要性を知った。
Yタイプ:A・B・Cなどいずれかの前提を、カレーまたはステーキのどちらか一方に決める十分な理由として信じられる人
↓
Yαタイプ:しょうもない理由でもその正しさを信じられる人
Yβタイプ:理由の正しさを十分に検証する姿勢を持ちながら、その検証をパスした結論を実行に移す覚悟が迷わず出来る人
つまり本当の決断力を持っているのはYβタイプである。そして僕は「(相談やチェックリストなどの方法も使いつつ)自分を騙さず、十分に検証した結論が一旦出たと思ったならば迷わずそれに従うという"心の中の取り決め"」が即ち決断力の正体であると主張する。
これによって一応は「"決断力"に本来の地位を取り戻させる」試みは成功したと考えるが、それでもやはり以前から感じていた違和感も妥当なものだと思う。なぜなら決断力は、単に上記のような"心の中の取り決め"に従うだけで行使したことになるからである。決断力という言葉が持つ世間的なカッコ良さはそれを行使するために必要なエネルギーが源泉だという印象があるが、これは一概に正しくない。十分な検証を行うのにエネルギーが大量に必要なことは確かにあるが、ほとんど必要ないことも多いからである。
経験や学習は、A・B・Cなどの前提を導き出し、それらを総合的に比較検討する速度と正確性を上げる方向に作用する。だから、経験や学習によって十分な知識を得ている人はそうでない人より決断力が上がるのである。知識の補助を得て為される決断はカッコいいタイプではあるものの、大したエネルギーは使わない。
一方「"心の中の取り決め"に迷わず従おうとしても躊躇せざるを得ない」ような重大な責任を伴う行為については、いくら知識の補助があっても大量のエネルギーが必要である。そのようなエネルギーを惜しげなく出すことが正真正銘の決断だと思うので、そこらへんに転がっているカッコいいタイプの決断を「決断」と呼ぶことに違和感を禁じ得ないのである。
2012年9月8日土曜日
幸せな持続とは何か?
![]() 企画展「世界の終わりのものがたり~もはや逃れられない73の問い」 http://www.miraikan.jp/sekainoowari/outline 日本科学未来館で開催された企画展に行って、特に印象に残ったのが上の写真。 質問A:「なにを持続すれば、あなたは幸せですか?」 質問B:「持続可能」とは「今」を持続することでしょうか? と書いてある。 持続可能な社会という言葉は環境問題の文脈で使われる。なんかもう聞き慣れていて、持続可能と言った場合に「その対象が何か」なんて考えたこともなかったが、言われてみると簡単でない。 「◯はこれまで持続してきた」という時、◯に当てはまる言葉として僕がまず思い浮かぶのは「現代文明」である。他にはないだろうか?「人類の歴史」とかも考えられる。しかし、人類の歴史が続いても「この現代文明」が一挙に別の文明にリニューアルされるのは(少なくとも最高に)幸せな持続ではない。逆に質問Bのように「今」を持続するのが幸せだと言うのは、人間の願望として自然だ。ただ現実的に無理である。 そう考えていくと、幸せな持続とは「今の持続」より妥協できるが「人類史の持続」より妥協できないラインに存在するように思われる。例えば、同じような社会的生活を世襲的に繰り返していくようなイメージ。しかしながら、前の世代と後の世代が経験する社会的生活は、全く「同じよう」ではないのである。だから最低でも、「ゆっくりと変化する社会的生活を世襲的に繰り返す」イメージは許す必要がある。そんな中で持続しているものを見つければ、それが質問Aの答えだ。 ゆっくりとした変化を無数に繰り返すと、元の面影は跡形もなくなる。例えば特定の大人の顔と彼が幼児だったときの顔は全然違う。しかし彼の親は彼のことをずっと同じ名前で呼ぶし、彼が変化(成長)することを喜びさえする。この過程で持続しているのは、ある時点での子供の身体が、次の時点で僅かしか変化しないという意味における、物理的な構成である。 また「僅かな変化」はある程度、親の期待に添っていることが重要である。たとえ僅かな変化でも、妙な変化を繰り返して妙な大人に成長したら親は幸せではない。ゴール(成人後)のイメージが、「僅かな変化」が親の期待にどれほど添っているのか判断する材料になるだろう。つまり、元の面影が跡形もなくなるような長時間経過後のことも、幸せな持続に無関係ではないといえる。 一応の結論を出しておこう。何を持続すれば幸せか? それは自分にとって重要な全ての対象であり、それぞれに期待するゴール(その実像はぼやけているものの、期待しないゴールは明確に存在する)から逆算される、それぞれごとに特徴的な「変化」である。変化ですら持続対象であるということが、恐らく質問AとBが難解に感じられた理由であろう。 ※変化してもらっては困るものもある。自宅にあるノートPCなどは、ディスク上のデータ以外いかなる変化もしてほしくない。この場合は、たまたま期待するゴールが購入時と同じだったということである。 ※ゴールは1つの対象につき1つだけではない。例えば赤ん坊が育ったら2年くらいで言葉を覚えてほしいとかどんな小学生になってほしいとか、中間目標はいくらでも設定することができる。そのやり方によって、それぞれの変化の幸せ度が決まる。 |
2012年6月2日土曜日
意識の拡大率
拡大率。グーグルマップなどを使ったことがある人はすぐ分かるだろう。それが高いと視野が狭くなり、細かい部分がよく見えるようになる。逆に低いと視野が広くなり、細かい部分がよく見えなくなる。どちらが優れているという訳ではなく、その時々の目的に応じて使い分けるのが普通である。
人は何かを意識する時、拡大率と似たようなプロパティを持っている。本を読むという行為を例にとってこの拡大率を説明してみよう。特に速読技術のない人が、1冊の本の内容を素早くざっと捉えたいと思っているとする。目次を見る。この時点で意識の拡大率は低い。見た感じ、1章と2章で著者が言わんとしていることの意図は分かるから、興味のある3章から見てみよう。と思って3章に進み1文1文丁寧に読んでいった。この時点で拡大率は高い。
意識の拡大率が高くなったので、彼の視野は狭くなって本来の目的を見失っている。丁寧に読み進めていき興味のある箇所は通り過ぎたのに、結局3章は全て読破してしまった。この本は面白くないなぁと思って読むのをやめた。
彼はもともと、内容を全て詳細に読み込むつもりはなかったのだ。全体概要を掴みたかったのにその目的が全く達成できなかったのは、興味のある箇所を通り過ぎたところで拡大率の再変更を行わなかったからである。一旦目次に戻り3章以降の興味ある章を再度探しその章を読み満足したところでまた目次に戻り・・・ということを繰り返していれば、とりあえず興味のある部分は全て読めただろう。
グーグルマップの拡大率は縦方向のバーによって表示されているが、意識の拡大率は自分で認識するよりない。自分が作業対象についての興味を失っていることに「素早く」気づき、その時点で拡大率を一挙に引き下げるのが重要である。素早く気づく体質になるための訓練としては、作業中に一定の時間間隔で「自分は今それについて興味を持っているか?」と問うてみるのが有効かもしれない。問われれば答えられるだろう。※
やるべきことはたくさんあるので、締め切りなどの与えられた順番ばかり気にして効率を落とすことは避けたいものだ。興味のない事柄Aが大事そうに見えたら、その周辺で興味のある事柄B,Cを探してみよう。BやCを経験したあとAを再度見て興味が湧いたら取り掛かれば良いし、それでも湧かなければ「大事そうに見えた」のは気のせいだったのだ。世界には、自分と関わりを持てないものはどうしたってある。
※問われれば答えられる・・・このエントリーでは車の運転に関連して、認知より判断のほうが容易であることを述べている。
人は何かを意識する時、拡大率と似たようなプロパティを持っている。本を読むという行為を例にとってこの拡大率を説明してみよう。特に速読技術のない人が、1冊の本の内容を素早くざっと捉えたいと思っているとする。目次を見る。この時点で意識の拡大率は低い。見た感じ、1章と2章で著者が言わんとしていることの意図は分かるから、興味のある3章から見てみよう。と思って3章に進み1文1文丁寧に読んでいった。この時点で拡大率は高い。
意識の拡大率が高くなったので、彼の視野は狭くなって本来の目的を見失っている。丁寧に読み進めていき興味のある箇所は通り過ぎたのに、結局3章は全て読破してしまった。この本は面白くないなぁと思って読むのをやめた。
彼はもともと、内容を全て詳細に読み込むつもりはなかったのだ。全体概要を掴みたかったのにその目的が全く達成できなかったのは、興味のある箇所を通り過ぎたところで拡大率の再変更を行わなかったからである。一旦目次に戻り3章以降の興味ある章を再度探しその章を読み満足したところでまた目次に戻り・・・ということを繰り返していれば、とりあえず興味のある部分は全て読めただろう。
グーグルマップの拡大率は縦方向のバーによって表示されているが、意識の拡大率は自分で認識するよりない。自分が作業対象についての興味を失っていることに「素早く」気づき、その時点で拡大率を一挙に引き下げるのが重要である。素早く気づく体質になるための訓練としては、作業中に一定の時間間隔で「自分は今それについて興味を持っているか?」と問うてみるのが有効かもしれない。問われれば答えられるだろう。※
やるべきことはたくさんあるので、締め切りなどの与えられた順番ばかり気にして効率を落とすことは避けたいものだ。興味のない事柄Aが大事そうに見えたら、その周辺で興味のある事柄B,Cを探してみよう。BやCを経験したあとAを再度見て興味が湧いたら取り掛かれば良いし、それでも湧かなければ「大事そうに見えた」のは気のせいだったのだ。世界には、自分と関わりを持てないものはどうしたってある。
※問われれば答えられる・・・このエントリーでは車の運転に関連して、認知より判断のほうが容易であることを述べている。
2012年5月27日日曜日
思考スイッチについて
仕事が忙しかったりすると、とりあえず日々のTodoを捌いているうちに月単位の時間があっという間に過ぎ、いくつかの意味で遠いところにある重要なことに考えを巡らせることがなくなってしまう。例えば、習慣、人、将来といったようなことだ。
ここでいう習慣とは、自分の生活習慣全体の改善である。人とは、普段会っていない人を考えることである。それには離れている家族や、連絡をとってみたいと前から思っていたが勇気がでなくてそうしていない人や、歴史上の人物などが考えられる。将来とは、自分の将来についての計画や家族や日本の将来に関することである。
さて、習慣全体の改善案として、思考スイッチというものを考えてみた。僕の場合は上記の3つに加えて趣味と読み書きの計5つを左手の5本の指にそれぞれ割り当てており、例えば人さし指の腹(指紋の渦があるあたり)を爪でチクっと刺激すると「人」を考えることにしている。親指は「読み書き」であり、読んでいない本のどれを次に読もうかとか、どんな本をこれから買っていこうか、ブログに何を書くかなどを考える。思考を開始するためのスイッチという意味で「思考スイッチ」と呼んでいる。
身体に思考スイッチの機能を持たせることは、「遠いところにある重要なことに考えを巡らせる」機会を身近に置くために有効である。つまり、頭が冴えた時に「指をチクっとしてみよう」と思いさえすれば5つの分野のいずれか(あるいは全部)を考えることができる。思考スイッチがなければ、「遠いところにある重要なことは何か?」という出発点から考えなければならず、しかもこの問いをすら忘れてしまう可能性がある。
余裕がある人は右手に違う役割を当てたり、第2関節や第3関節を使ってもよいだろう。しかし重要なのは、思考が実際に行われるだけで満足しないことである。例えば、普段会っていない人のことを考えたけれども特に連絡をとらないのであれば大した意義はない。メモレベルでもいいから考えたことはアウトプットし、それが何回か繰り返された時に何らかの具体的なアクションに結びつけることができれば、とりあえず日々のTodoを捌いている日常よりは満足することができるだろう。
ここでいう習慣とは、自分の生活習慣全体の改善である。人とは、普段会っていない人を考えることである。それには離れている家族や、連絡をとってみたいと前から思っていたが勇気がでなくてそうしていない人や、歴史上の人物などが考えられる。将来とは、自分の将来についての計画や家族や日本の将来に関することである。
さて、習慣全体の改善案として、思考スイッチというものを考えてみた。僕の場合は上記の3つに加えて趣味と読み書きの計5つを左手の5本の指にそれぞれ割り当てており、例えば人さし指の腹(指紋の渦があるあたり)を爪でチクっと刺激すると「人」を考えることにしている。親指は「読み書き」であり、読んでいない本のどれを次に読もうかとか、どんな本をこれから買っていこうか、ブログに何を書くかなどを考える。思考を開始するためのスイッチという意味で「思考スイッチ」と呼んでいる。
身体に思考スイッチの機能を持たせることは、「遠いところにある重要なことに考えを巡らせる」機会を身近に置くために有効である。つまり、頭が冴えた時に「指をチクっとしてみよう」と思いさえすれば5つの分野のいずれか(あるいは全部)を考えることができる。思考スイッチがなければ、「遠いところにある重要なことは何か?」という出発点から考えなければならず、しかもこの問いをすら忘れてしまう可能性がある。
余裕がある人は右手に違う役割を当てたり、第2関節や第3関節を使ってもよいだろう。しかし重要なのは、思考が実際に行われるだけで満足しないことである。例えば、普段会っていない人のことを考えたけれども特に連絡をとらないのであれば大した意義はない。メモレベルでもいいから考えたことはアウトプットし、それが何回か繰り返された時に何らかの具体的なアクションに結びつけることができれば、とりあえず日々のTodoを捌いている日常よりは満足することができるだろう。
2012年2月14日火曜日
利他について
タイム・コンサルタントの日誌から : 書評:「持続不可能性」 サイモン・レヴィン著
http://brevis.exblog.jp/14689955/
なんか前にもReblogしたような気がするけど・・・既視感かもしれないけど・・・なんか気になるテーマです、利他。
ふつうは生物の進化は自然淘汰がその原理とされている。個体が自分自身のためにつまり「利己的に」生き、その生き方が自分の長寿というか繁栄力をもたらすのであれば、その生き方に対応した遺伝子が次の世代において優勢になる。これは利他を装った利己であっても同じことでしょう。なぜなら「生き方が自分の長寿というか繁栄力をもたらすのであれば・・・」という文章中の「生き方」は、それがどんな内容であっても文章全体の意味を壊さないから。
でも引用文中の「自種の適応可能性を高めるから」という部分は簡単に見逃せない。ここで言ってるのは、ある生き方が(めぐりめぐって最終的に)自分のためにならなくても、自分の生物種の繁栄をもたらすならばその生き方が自然淘汰によって優勢になるという意味かと思うが、るろけんの志々雄真実も言ってるとおり「強い者が生き残るんじゃない、生き残ったものが強いんだ」であり、遺伝子の拡散ってそもそも個体が生き残らないことには起きようがないわけで、仮にある生き方が自分の生物種の繁栄に寄与するものだとしても自分自身のためにならないならその生き方は後世に伝わらない。
といっても、人間なら利他があっても不思議はないかなという気もする。人間には遺伝子とは別の形で文化を伝える手段があり、それぞれ文化Aと文化Bを持つ国家AとBがあって、それらが戦争でもして国家Bが消滅した場合、Bの文化もあらかた消滅するわけであるから文化Aが後世に残るだろう。この場合、利他が国家のためになるなら利他が美徳として奨励されていたのは文化BではなくAのほうである可能性が高い。要するに利他は文化であって本能じゃないんじゃなかろうか。
もし利他が本能なのだとしたら、わざわざ奨励する必要はないわけである。お母さんを大切にしましょう・・・これは遠まわしな利己だ、だからそんなに奨励する必要はない。でも子供が成人したら彼は母親なしで生きていける、だから成人した子供が母親を大切にするのは遠まわしな利己とは言えない、つまり利他だ、だから奨励する必要があって、実際奨励に用いられている言葉は「親孝行」でありその対象は大人である。
もし原始的な生物に利他があるとするなら、その生物種の個体間にも文化的なものがあるんじゃないだろうか。例えば模倣とか。ある個体が気まぐれで利他アクションを起こし、それがなんか真似したい感じだったので近くにいた個体が次々に真似をして、世代間のオーバーラップによって伝えられていくような。集団的にその利他アクションを行うと生物種にとって良い影響があるなら、利他アクションを行わない類似の生物種より繁栄しやすいことになるだろう。
つまり、遺伝子じゃなくアフォーダンス的な反応(原始的な模倣)によって伝わっていくことって実は結構あるのだが、我々から見て利己的と思われる行動は自然淘汰ということにして、利他的と思われる行動は何とか利己に帰着させようという、そういう間違いをしてる可能性ってないのかしらと思ったりした。
http://brevis.exblog.jp/14689955/
生物界には、「利他的」としか言いようのない、不思議な現象が時々ある。それを、めぐりめぐって最終的には自己や自種の適応可能性を高めるから、という視点から説明しようという、いかにもネオ・ダーウィニズム的な研究アプローチである。
しかし、本当にそういう説明ですべてが納得できるのだろうか。進化ゲーム理論やネオ・ダーウィニズムには、競争原理はあれども、協働原理は存在しようがない。前提条件から排除されているからだ。
なんか前にもReblogしたような気がするけど・・・既視感かもしれないけど・・・なんか気になるテーマです、利他。
ふつうは生物の進化は自然淘汰がその原理とされている。個体が自分自身のためにつまり「利己的に」生き、その生き方が自分の長寿というか繁栄力をもたらすのであれば、その生き方に対応した遺伝子が次の世代において優勢になる。これは利他を装った利己であっても同じことでしょう。なぜなら「生き方が自分の長寿というか繁栄力をもたらすのであれば・・・」という文章中の「生き方」は、それがどんな内容であっても文章全体の意味を壊さないから。
でも引用文中の「自種の適応可能性を高めるから」という部分は簡単に見逃せない。ここで言ってるのは、ある生き方が(めぐりめぐって最終的に)自分のためにならなくても、自分の生物種の繁栄をもたらすならばその生き方が自然淘汰によって優勢になるという意味かと思うが、るろけんの志々雄真実も言ってるとおり「強い者が生き残るんじゃない、生き残ったものが強いんだ」であり、遺伝子の拡散ってそもそも個体が生き残らないことには起きようがないわけで、仮にある生き方が自分の生物種の繁栄に寄与するものだとしても自分自身のためにならないならその生き方は後世に伝わらない。
といっても、人間なら利他があっても不思議はないかなという気もする。人間には遺伝子とは別の形で文化を伝える手段があり、それぞれ文化Aと文化Bを持つ国家AとBがあって、それらが戦争でもして国家Bが消滅した場合、Bの文化もあらかた消滅するわけであるから文化Aが後世に残るだろう。この場合、利他が国家のためになるなら利他が美徳として奨励されていたのは文化BではなくAのほうである可能性が高い。要するに利他は文化であって本能じゃないんじゃなかろうか。
もし利他が本能なのだとしたら、わざわざ奨励する必要はないわけである。お母さんを大切にしましょう・・・これは遠まわしな利己だ、だからそんなに奨励する必要はない。でも子供が成人したら彼は母親なしで生きていける、だから成人した子供が母親を大切にするのは遠まわしな利己とは言えない、つまり利他だ、だから奨励する必要があって、実際奨励に用いられている言葉は「親孝行」でありその対象は大人である。
もし原始的な生物に利他があるとするなら、その生物種の個体間にも文化的なものがあるんじゃないだろうか。例えば模倣とか。ある個体が気まぐれで利他アクションを起こし、それがなんか真似したい感じだったので近くにいた個体が次々に真似をして、世代間のオーバーラップによって伝えられていくような。集団的にその利他アクションを行うと生物種にとって良い影響があるなら、利他アクションを行わない類似の生物種より繁栄しやすいことになるだろう。
つまり、遺伝子じゃなくアフォーダンス的な反応(原始的な模倣)によって伝わっていくことって実は結構あるのだが、我々から見て利己的と思われる行動は自然淘汰ということにして、利他的と思われる行動は何とか利己に帰着させようという、そういう間違いをしてる可能性ってないのかしらと思ったりした。
2011年9月25日日曜日
非現実の楽しさ
社会人になってゲームをする時間がめっきり減ったけど、ゲームして何になるって思うようになったら寂しいよなと思う。
どんな非現実的なことに価値を見出すにしてもそれは現実的な身体に立脚するわけだから現実をケアしないわけにいかないが、例えばお互いよく知ってる小説の細かい内容について(はたから見ればマニアックな)話をしている時の楽しさを想像してみよう。その楽しさには明らかに、共有の楽しさ以外に非現実の楽しさが含まれる。
自分の考え方に明快なオリジナリティを求める限り、非現実に思いを馳せない手はない。オリジナリティという言葉だと控えめ過ぎるかもしれない、はっきり言えば精神的自由のことだ。我々はたまたまこの時代に生まれた。このあたりを支配する物理法則や文化的背景や育ってきた家庭環境が、一人一人の考え方を強く制限づける。もし生きるためにどうすればいいかだけ考えようとすれば、もともと似たような制限を受けている我々の考え方はさらに似通ったものになる。だからコミュニケーションが可能なのだとも言えるし、だから大して自由なんかないのだとも言える。
自由はオリジナリティに関係がある。なんでかというと、自由に考えた2人が同じことを思い浮かべる可能性は低いから。また自由は非現実に関係がある。現実はただ1つしかないので、自由に考えた世界が現実に帰着する可能性は低いから。なのでオリジナリティは非現実と関係がある。
自由を求めて非現実な世界に入る人の多くは、その世界の出来事について誰かと話をしたいという矛盾したことを考えている。その世界が日常的な感覚から乖離した自由な世界であればあるほど、日常会話は使えなくなるというのに。囲碁では石が呼吸する、陣をとる、死ぬ、生きるなどの日常会話もどきが出てくるが、これは非現実世界で現実的な言葉を使ったコミュニケーションをしたいという要求に「比喩」を使って答えた一つの例である。いやこの言い方は正しくなくて、そもそも囲碁というゲームの原型を作るときにその作者が自由すぎる発想をしなかったから比喩が使いやすい世界になったのだろう。
物理学が一般的に理解しにくい理由はこの逆だ。話を簡単にするために神様を登場させるが、神様はこの世界(を構成する物理法則)を作るときに自由すぎる発想をしたから比喩が効かないのだ。いやひょっとしたら神様は前に似たような世界を作ったことがあって、神様にとってはその世界の言葉でこの世界のルールを喩えることができるのかもしれないが。それにしたってその比喩は、(神様が一人である限り)誰かとコミュニケーションするために利用することはできない。
我々はある意味で、自由を求めて孤独な神様になりたい。よくできた、オリジナリティある世界を作りたい。でも一方でその世界に誰かを連れていきたい、もしくは誰かが作った共感できる世界に連れて行ってもらいたい。しかも2人では寂しい、なるべくたくさん。孤独になりたいのかなりたくないのか、よく分からない。
非現実世界でコミュニケーションをするとそもそも何が満足なのか考えてみたい。この場合のコミュニケーションは生活のために必須なものではないので、それが満たされないからといって現実的に困ることはないはずだ。単に基本的欲求が非現実世界でも顔を出すだけなら、それは比喩と同様に「自由すぎる世界を理解するための」便利な道具に過ぎない。でも、ひょっとしたらそうなのか。人間は後天的に世界のことを理解する。狼に育てられた少女の話じゃないが、コミュニケーションの相手が変われば世界に対する理解も変わるだろう。
懐中電灯がないと見えない洞窟があり、光の種類によって浮かび上がってくる像がまるで違って見えるなら、洞窟のあり方は懐中電灯がなければ規定することができない。繰り返しになるが、お互いよく知ってる小説の細かい内容について話をしている時の楽しさには非現実の楽しさが含まれる。非現実の楽しさについて考えてしまうのは、現代には洞窟らしきものがなくなってしまったからかもしれない。現実が誰も知らない洞窟だらけなら、そこへ懐中電灯を連れて探検にいけばいいだけだ。
自由とは要は探検ができる、その地のことが分かる、そこで暮らせるということなのかもしれない。だとしたら我々は別に、矛盾する欲求を持っていたわけじゃなさそうだ。小さい頃、友達を誘って秘密の基地に出かけた。裏山の、周囲から視界を遮られた窪地みたいな場所で、「秘密」だから自分たち以外の人には来てほしくなかった。ある程度孤独になって秘密の世界を楽しみたかったのだ。もし秘密基地を独り占めすれば、秘密の量がぐっと減ってしまう。なぜなら、その場所で友達と遊んだその体験も秘密に含まれるからだ。
探検は、ある程度秘密で行われなければならない。みんなでドヤドヤ出かける探検隊など見たことがないが、ある程度メンバーが多い探検隊は存在するだろう。作ろうとする非現実の「現実からの乖離度」は、どんなメンバーを自分の探検隊に加えたいかによって決定することになる(現実と大きく異なる世界の出来事を言い表す言葉は現実の言い回しとだいぶ異なっており、それらの語彙を自在に使いこなせる人は少なくなる)。まぁ基本的には、自分が楽しめる非現実を作っておけば気の合う仲間が寄ってくるんじゃないだろうか。
どんな非現実的なことに価値を見出すにしてもそれは現実的な身体に立脚するわけだから現実をケアしないわけにいかないが、例えばお互いよく知ってる小説の細かい内容について(はたから見ればマニアックな)話をしている時の楽しさを想像してみよう。その楽しさには明らかに、共有の楽しさ以外に非現実の楽しさが含まれる。
自分の考え方に明快なオリジナリティを求める限り、非現実に思いを馳せない手はない。オリジナリティという言葉だと控えめ過ぎるかもしれない、はっきり言えば精神的自由のことだ。我々はたまたまこの時代に生まれた。このあたりを支配する物理法則や文化的背景や育ってきた家庭環境が、一人一人の考え方を強く制限づける。もし生きるためにどうすればいいかだけ考えようとすれば、もともと似たような制限を受けている我々の考え方はさらに似通ったものになる。だからコミュニケーションが可能なのだとも言えるし、だから大して自由なんかないのだとも言える。
自由はオリジナリティに関係がある。なんでかというと、自由に考えた2人が同じことを思い浮かべる可能性は低いから。また自由は非現実に関係がある。現実はただ1つしかないので、自由に考えた世界が現実に帰着する可能性は低いから。なのでオリジナリティは非現実と関係がある。
自由を求めて非現実な世界に入る人の多くは、その世界の出来事について誰かと話をしたいという矛盾したことを考えている。その世界が日常的な感覚から乖離した自由な世界であればあるほど、日常会話は使えなくなるというのに。囲碁では石が呼吸する、陣をとる、死ぬ、生きるなどの日常会話もどきが出てくるが、これは非現実世界で現実的な言葉を使ったコミュニケーションをしたいという要求に「比喩」を使って答えた一つの例である。いやこの言い方は正しくなくて、そもそも囲碁というゲームの原型を作るときにその作者が自由すぎる発想をしなかったから比喩が使いやすい世界になったのだろう。
物理学が一般的に理解しにくい理由はこの逆だ。話を簡単にするために神様を登場させるが、神様はこの世界(を構成する物理法則)を作るときに自由すぎる発想をしたから比喩が効かないのだ。いやひょっとしたら神様は前に似たような世界を作ったことがあって、神様にとってはその世界の言葉でこの世界のルールを喩えることができるのかもしれないが。それにしたってその比喩は、(神様が一人である限り)誰かとコミュニケーションするために利用することはできない。
我々はある意味で、自由を求めて孤独な神様になりたい。よくできた、オリジナリティある世界を作りたい。でも一方でその世界に誰かを連れていきたい、もしくは誰かが作った共感できる世界に連れて行ってもらいたい。しかも2人では寂しい、なるべくたくさん。孤独になりたいのかなりたくないのか、よく分からない。
非現実世界でコミュニケーションをするとそもそも何が満足なのか考えてみたい。この場合のコミュニケーションは生活のために必須なものではないので、それが満たされないからといって現実的に困ることはないはずだ。単に基本的欲求が非現実世界でも顔を出すだけなら、それは比喩と同様に「自由すぎる世界を理解するための」便利な道具に過ぎない。でも、ひょっとしたらそうなのか。人間は後天的に世界のことを理解する。狼に育てられた少女の話じゃないが、コミュニケーションの相手が変われば世界に対する理解も変わるだろう。
懐中電灯がないと見えない洞窟があり、光の種類によって浮かび上がってくる像がまるで違って見えるなら、洞窟のあり方は懐中電灯がなければ規定することができない。繰り返しになるが、お互いよく知ってる小説の細かい内容について話をしている時の楽しさには非現実の楽しさが含まれる。非現実の楽しさについて考えてしまうのは、現代には洞窟らしきものがなくなってしまったからかもしれない。現実が誰も知らない洞窟だらけなら、そこへ懐中電灯を連れて探検にいけばいいだけだ。
自由とは要は探検ができる、その地のことが分かる、そこで暮らせるということなのかもしれない。だとしたら我々は別に、矛盾する欲求を持っていたわけじゃなさそうだ。小さい頃、友達を誘って秘密の基地に出かけた。裏山の、周囲から視界を遮られた窪地みたいな場所で、「秘密」だから自分たち以外の人には来てほしくなかった。ある程度孤独になって秘密の世界を楽しみたかったのだ。もし秘密基地を独り占めすれば、秘密の量がぐっと減ってしまう。なぜなら、その場所で友達と遊んだその体験も秘密に含まれるからだ。
探検は、ある程度秘密で行われなければならない。みんなでドヤドヤ出かける探検隊など見たことがないが、ある程度メンバーが多い探検隊は存在するだろう。作ろうとする非現実の「現実からの乖離度」は、どんなメンバーを自分の探検隊に加えたいかによって決定することになる(現実と大きく異なる世界の出来事を言い表す言葉は現実の言い回しとだいぶ異なっており、それらの語彙を自在に使いこなせる人は少なくなる)。まぁ基本的には、自分が楽しめる非現実を作っておけば気の合う仲間が寄ってくるんじゃないだろうか。
2011年7月18日月曜日
分かりやすく伝えること
大雑把にいうと世の中には2種類の人がいる。どんな難しいことでも分かりやすく伝えられると思っている人と、とても難しいことは分かりやすく伝えられないと思っている人。ちょっとそれぞれの主張を書きくだしてみよう。
前者の典型としては、例えば数学の教授に「あなたの説明は私には分からない、もっと分かりやすく説明するべきだ」とイチャモンをつける学生が考えられる。世間一般でいうところの「分かりやすい説明」とは、細かいことはどうでもいいから概要をかいつまんでするようなものを指すことが多い。しかし数学の授業で細かいことが伝えられなければ、大学の授業として価値はないだろう。
そのように思っている教授がいるとすれば、それが後者の典型だ。分かりやすい説明と正確な説明は両立しない。だから、正確な説明が求められる場面で(誰にでも)分かりやすい説明は不可能なのだと。もちろん、正確な説明をする教授が2人いてそのどちらかのほうがもう一方よりずっと分かりやすい説明をすることはある。でもそれはあくまで、ある程度分かっている人にとって分かりやすいだけのことで、誰にでも分かりやすいなんてことはない。
さて本稿では、前者も後者も「相手に歩み寄らない」という点で閉鎖的であると主張する。分かりやすい説明をさせることは、相手にかなりの精神的負担をかける。説明を受ける人間が前提知識を持っていればその負担を軽減できるのだから、説明する側にだけ分かりやすさを求めるのは怠惰で横柄な態度といえる。
一方で、どんなに難しい内容でも、正確さを犠牲にして概要を伝えることが有効な場面はあるように思う。例えば先の数学の授業でいえば、これから取りかかる章を理解するとどんな応用につながるのか、これまで学んできたどんな知識が活かされるのか、そもそも歴史上の先人たちはどんな問題意識でもってこの章で言われている内容を創り上げたのかなどを説明することは可能であり、学生に勉強する意欲を与えるだろう。
説明を求められた時、常に求められた(と思う)まさにその内容について説明しようとするのはバカ正直すぎる。相手が前提知識なしに、前提知識が必要となる内容を聞いてきたのなら、内容の周辺や関連事項を話してあげるとよい(場合によっては前提知識の齟齬を指摘すべきかもしれないが)。特に自然科学を志す人間はものごとをうまく説明できてなんぼという強迫観念があるので、説明しろといわれれば正確に説明しないと気が済まない人が多い気がするのだが、イマココにあって有効に働くのはその説明だけではないしそれどころか全く関係ないことかもしれない。
前者の典型としては、例えば数学の教授に「あなたの説明は私には分からない、もっと分かりやすく説明するべきだ」とイチャモンをつける学生が考えられる。世間一般でいうところの「分かりやすい説明」とは、細かいことはどうでもいいから概要をかいつまんでするようなものを指すことが多い。しかし数学の授業で細かいことが伝えられなければ、大学の授業として価値はないだろう。
そのように思っている教授がいるとすれば、それが後者の典型だ。分かりやすい説明と正確な説明は両立しない。だから、正確な説明が求められる場面で(誰にでも)分かりやすい説明は不可能なのだと。もちろん、正確な説明をする教授が2人いてそのどちらかのほうがもう一方よりずっと分かりやすい説明をすることはある。でもそれはあくまで、ある程度分かっている人にとって分かりやすいだけのことで、誰にでも分かりやすいなんてことはない。
さて本稿では、前者も後者も「相手に歩み寄らない」という点で閉鎖的であると主張する。分かりやすい説明をさせることは、相手にかなりの精神的負担をかける。説明を受ける人間が前提知識を持っていればその負担を軽減できるのだから、説明する側にだけ分かりやすさを求めるのは怠惰で横柄な態度といえる。
一方で、どんなに難しい内容でも、正確さを犠牲にして概要を伝えることが有効な場面はあるように思う。例えば先の数学の授業でいえば、これから取りかかる章を理解するとどんな応用につながるのか、これまで学んできたどんな知識が活かされるのか、そもそも歴史上の先人たちはどんな問題意識でもってこの章で言われている内容を創り上げたのかなどを説明することは可能であり、学生に勉強する意欲を与えるだろう。
説明を求められた時、常に求められた(と思う)まさにその内容について説明しようとするのはバカ正直すぎる。相手が前提知識なしに、前提知識が必要となる内容を聞いてきたのなら、内容の周辺や関連事項を話してあげるとよい(場合によっては前提知識の齟齬を指摘すべきかもしれないが)。特に自然科学を志す人間はものごとをうまく説明できてなんぼという強迫観念があるので、説明しろといわれれば正確に説明しないと気が済まない人が多い気がするのだが、イマココにあって有効に働くのはその説明だけではないしそれどころか全く関係ないことかもしれない。
2011年2月20日日曜日
ヒトの繁栄について
もし人類が未来永劫に渡って絶滅しないことが保証されていたとしたら。
例えば仮に人間個人が、グーグルのBig-Table上の単一オブジェクトみたいな存在になり、しかもそのインフラが宇宙の隅々まで行き渡っており、別の宇宙にある同様のインフラと通信・同期することすら可能であるとすれば、だいたい「絶滅しない条件」が整っていると言えるだろう。というかそういうことにしよう。そうなった時、 ーもはや彼らは人間と呼べない感じになってしまっているので、仮想人間と呼ぼうー 仮想人類は「何のためにここまで増えたのか?」と思わないだろうか?
ここで、仮想人類は何人の独立した仮想個人から構成されるのがベストか?という問題を考える
{*「独立した」というのは、分散データ(バックアップ)を含まないという意味。「仮想人類」は、仮想人間の一人一人(仮想個人)から成る集団のこと }。
素朴な言葉で言えば、世界が100人の村であるのと、数億の国の集合であるのとではどちらがいいか?ということである。
なぜ増える必要があるのか?この疑問に対する冷静な回答の一つは、「全体として増えるのは単なる結果であって、個別の生殖活動が行われる動機は、個人的とさえ言えるほど小さい理由である」というものだろう。そうだとすれば、人類は何も考えずにその規模を拡大していることになる。しかしながら、そのことが問題になるのは、単にヒトの生息環境として用意されているのがこの地球しか今のところないからである。
つまり私たちは、非常に差し迫った環境問題以外については、「何も考えずに規模を拡大している」ことに対して何の内省も行っていないのである。仮想人類の文脈では生息環境の広さに関する制限はないので、この「内省」が行われやすくなると思われる。何人の村ならいいのか?100人の村より60億人の村のほうが、あるいはもっと大人数の村のほうが幸せな社会だと言えるのか?逆に、何人であろうと
大した相違はなくて、むしろゼロでも価値は同じなのではないか、といったような内省である。
このように考えるのは、あまり現実主義的ではないように映るし、実際その通りだと思う。しかしながら、人生に意味はあると考える人々にとっては、この問題は無意味ではないだろう。何しろ、一人一人の人生にオリジナルな意味があるのなら、100人の村より60億人の村のほうが、意味の総量は多くなるに決まっているのだから。
そう考える一方、多ければ多いほど良いとも思えないだろう。よって、「人生には意味がないことにする」か、「(ゼロから無限の間において)ちょうど良い繁栄規模はこれである、という説得力ある説明を見つけだす」か、「別のシナリオを考える」か、以上のうちいずれかの方針を採って考えを進めなければならない。
個人的には、最後の選択肢を考えているが・・・気が向いたら書くことにする。
例えば仮に人間個人が、グーグルのBig-Table上の単一オブジェクトみたいな存在になり、しかもそのインフラが宇宙の隅々まで行き渡っており、別の宇宙にある同様のインフラと通信・同期することすら可能であるとすれば、だいたい「絶滅しない条件」が整っていると言えるだろう。というかそういうことにしよう。そうなった時、 ーもはや彼らは人間と呼べない感じになってしまっているので、仮想人間と呼ぼうー 仮想人類は「何のためにここまで増えたのか?」と思わないだろうか?
ここで、仮想人類は何人の独立した仮想個人から構成されるのがベストか?という問題を考える
{*「独立した」というのは、分散データ(バックアップ)を含まないという意味。「仮想人類」は、仮想人間の一人一人(仮想個人)から成る集団のこと }。
素朴な言葉で言えば、世界が100人の村であるのと、数億の国の集合であるのとではどちらがいいか?ということである。
なぜ増える必要があるのか?この疑問に対する冷静な回答の一つは、「全体として増えるのは単なる結果であって、個別の生殖活動が行われる動機は、個人的とさえ言えるほど小さい理由である」というものだろう。そうだとすれば、人類は何も考えずにその規模を拡大していることになる。しかしながら、そのことが問題になるのは、単にヒトの生息環境として用意されているのがこの地球しか今のところないからである。
つまり私たちは、非常に差し迫った環境問題以外については、「何も考えずに規模を拡大している」ことに対して何の内省も行っていないのである。仮想人類の文脈では生息環境の広さに関する制限はないので、この「内省」が行われやすくなると思われる。何人の村ならいいのか?100人の村より60億人の村のほうが、あるいはもっと大人数の村のほうが幸せな社会だと言えるのか?逆に、何人であろうと
大した相違はなくて、むしろゼロでも価値は同じなのではないか、といったような内省である。
このように考えるのは、あまり現実主義的ではないように映るし、実際その通りだと思う。しかしながら、人生に意味はあると考える人々にとっては、この問題は無意味ではないだろう。何しろ、一人一人の人生にオリジナルな意味があるのなら、100人の村より60億人の村のほうが、意味の総量は多くなるに決まっているのだから。
そう考える一方、多ければ多いほど良いとも思えないだろう。よって、「人生には意味がないことにする」か、「(ゼロから無限の間において)ちょうど良い繁栄規模はこれである、という説得力ある説明を見つけだす」か、「別のシナリオを考える」か、以上のうちいずれかの方針を採って考えを進めなければならない。
個人的には、最後の選択肢を考えているが・・・気が向いたら書くことにする。
現実と小説
今日の世界文学ワンダーランドはジョン・アップダイクの『クーデター』だった。著者はアフリカに、アフリカのイメージを代表するいかにもアフリカらしい架空の国を作り、そこからの視点でアメリカを風刺した。僕はかなり最近まで小説を軽視してきたので、少し前なら「国まで架空なんじゃ、読んでも何の得もない」と思っただろう。世の中には特定の小説について読書体験を共有し、そこに登場する人物や概念について議論をする人たちがいる。一体その議論は何だろう、何の意味があるのかと。
でも今では、逆に現実についての議論は何がそんなに(小説についての議論に比べて)偉いのかと疑うようになってきている。抽象的な言葉を用いた議論は本来仮想的なものだ。現実にある複数の現象・パターンに名前を設定し、それを文法というテンプレートに入れ込んで文章を作る。文章と別の文章を交換してコミュニケーションをし、何らかの合意に至る。なるほど役に立つ。しかし小説についての議論でも、同程度に合意に至るだろう。その合意は、一定範囲の文脈中において特定の命題が真であるかどうかに関する合意であり、その点では現実でも小説でも変わりがない。
ただしその特定の命題なるものが、現実について議論される際には、真であるか偽であるかが実在人物の生活に影響を与え、小説について議論される際には、真であっても偽であっても実はどうでもよいというあたりが相違点であろう。しかしながら、ここから直ちに現実についての議論のほうが現実的に重要だと言うことはできない。なぜなら、結論が実際の利害に直結しないということは議論の展開に自由度をもたらすからである。
実際の利害について興味がある私たちは、今までにない新しいものを作りだすことに興味を持っている。新しいものが誕生すると利害関係に影響を与えるからだ。ここで、もし議論が・・・一人の頭の中でのみなされる議論、つまり思考も含め・・・その展開に強い制限を加えられていたらどうだろう。新しいアイディアが自分にとって有益かどうかを考える際にはまずタネをたくさん用意しなければならないというのに、現実に正しいことからの演繹でしか選択肢を手繰り寄せられないのでは非常に効率が悪い。
小説中にでてくる言葉も現実に話される言葉も、それらを構成する単語に分解してしまえば区別がつかない。組み合わせ方に強い制限を課したものが現実的な言葉であって、逆に最低限の制限しか課さないものが小説的な言葉である。この自由度によって小説は多くのタネを生み、例えその多くが現実に役に立たないものだとしても、何%かが新種の有用なアイディアとして生き残る。
小説がいくら架空の話だといっても、人間は全く現実に即していない世界を考えることはできない。現実についての話がいくら現実的に感じても、人間は完璧に現実を頭の中に(あるいは紙の上に)再現することはできない。そういうわけで両者は互いに歩み寄って、私たちが考えているよりずっと近い距離に並んでいる。
でも今では、逆に現実についての議論は何がそんなに(小説についての議論に比べて)偉いのかと疑うようになってきている。抽象的な言葉を用いた議論は本来仮想的なものだ。現実にある複数の現象・パターンに名前を設定し、それを文法というテンプレートに入れ込んで文章を作る。文章と別の文章を交換してコミュニケーションをし、何らかの合意に至る。なるほど役に立つ。しかし小説についての議論でも、同程度に合意に至るだろう。その合意は、一定範囲の文脈中において特定の命題が真であるかどうかに関する合意であり、その点では現実でも小説でも変わりがない。
ただしその特定の命題なるものが、現実について議論される際には、真であるか偽であるかが実在人物の生活に影響を与え、小説について議論される際には、真であっても偽であっても実はどうでもよいというあたりが相違点であろう。しかしながら、ここから直ちに現実についての議論のほうが現実的に重要だと言うことはできない。なぜなら、結論が実際の利害に直結しないということは議論の展開に自由度をもたらすからである。
実際の利害について興味がある私たちは、今までにない新しいものを作りだすことに興味を持っている。新しいものが誕生すると利害関係に影響を与えるからだ。ここで、もし議論が・・・一人の頭の中でのみなされる議論、つまり思考も含め・・・その展開に強い制限を加えられていたらどうだろう。新しいアイディアが自分にとって有益かどうかを考える際にはまずタネをたくさん用意しなければならないというのに、現実に正しいことからの演繹でしか選択肢を手繰り寄せられないのでは非常に効率が悪い。
小説中にでてくる言葉も現実に話される言葉も、それらを構成する単語に分解してしまえば区別がつかない。組み合わせ方に強い制限を課したものが現実的な言葉であって、逆に最低限の制限しか課さないものが小説的な言葉である。この自由度によって小説は多くのタネを生み、例えその多くが現実に役に立たないものだとしても、何%かが新種の有用なアイディアとして生き残る。
小説がいくら架空の話だといっても、人間は全く現実に即していない世界を考えることはできない。現実についての話がいくら現実的に感じても、人間は完璧に現実を頭の中に(あるいは紙の上に)再現することはできない。そういうわけで両者は互いに歩み寄って、私たちが考えているよりずっと近い距離に並んでいる。
2010年7月4日日曜日
理由という言葉の少し変わった使い方
Twitterでmic314が言っていたことから連想した事柄を少し。
※mic314はwiiの428というゲームにでてくるタマというキャラクターによく似ているなぁ・・・と密かに思っている人。べつに親しくはない。
mic314とspinel3の会話を引用:
m: "女性は月刊、男性は週刊、って、なんでだろう、という議論中。…しかし、結論出ず。なんでなんだろーっ。"
s: "それってどういう議論ですか?"
m: "雑誌や漫画など、女性誌は月刊が多く、男性誌は週刊が多い・・・という実感があり、なぜ違うんだろう…という話をしてました!"
面白いと思うのは実はこの議論の内容そのものではなく、「なんでだろう」と理由を考えているところだ。理由という言葉は普通、ある人がなにか行動をした時の意図であったり、結果に対する原因という意味で使われる。上で問題になっているのは後者のほうなのだが、若い頃に考えていたことの後遺症か何か知らないが、理由というとどうしても意図的なニュアンスを感じてしまう。
むかし考えていたことというのは、生物の進化に関する話。
例えば世界には変わった姿形をした生物がいるが、彼らはどうしてそういう形になったんだろう?
「アリクイの鼻が長いのは何で?」と聞かれたら「アリを食べるのに便利だから」と説明する人は結構いると思うが、アリクイ自身がそう思って鼻を伸ばしたわけではない。「アリを食べるのに便利なように進化したから」と説明しても、「何で他のエサではなく"アリ"がターゲットなのか?」と聞き返されたとき困るだろう。
アリクイの祖先がいて、突然変異によって何種類かの子孫に分岐したとしよう。
その1つがアリクイで、理由もなく鼻が長くて先が細かった。それはアリを食べるのに適していて
アリは栄養価が高くてどこにでもたくさんいたのでアリクイは生き残ることができた。
仮にそうだとすると、アリクイの鼻が長い理由は、単に彼らの生態圏で生き残ることができる姿形のレパートリーに「鼻が長い、アリクイのような姿形」が含まれていただけということになる。
さて、上の理由と、「アリを食べるのに便利だから」という説明はどれくらい違うだろうか?
一見して、アリクイのような姿形が生き残りやすいために生き残ったというのなら、その姿形が生き残りやすかった理由はアリを食べやすいことなのだから、「アリを食べるのに便利だから」と言っても問題なさそうに思える。
※そしてこれが自分なりの結論なのだが、反論も思い浮かぶ。以下、それに対する自問自答。
でも、質問は「アリクイの鼻が長いのは何で?」だった。この意味が「いま目の前にいるアリクイの鼻が長いのは何で?」であれば、その答えは「そのような遺伝情報をもって生まれてきて、なおかつ無事に育ったから」となり、「何でそんな風に進化したの?」であれば「たまたま」というしかない。
なぜなら、その姿形が生き残りやすいかどうかは長い時間テストしてみなければ分からないからだ。
先祖からアリクイが分岐した時点で既にその鼻は長い。この理由と、現代のこの日にアリクイの鼻が長い理由は同じであると仮定しよう。すると、前者の時点ではその姿形が生き残りやすいかどうかなんて分からないのだから、アリクイの鼻が長い理由は「アリを食べるのに便利だから」ではありえない。分岐がランダムな突然変異で起こるのであれば、その時点でアリクイがアリクイの姿形をしているのは「たまたま」だ。よって後者の時点でも理由は同様である。
というわけで「自分なりの結論」が否定されてしまった。しかし上で仮定したことは生産的な議論を生まないので棄却するべきと思う。前者の時点でアリクイの鼻が長い理由はたまたまであるというのは確かにその通りだが、後者の時点でも同じことしか言えないとすれば、それは質問を好意的に解釈する気も、アリクイが長い時間にわたって生存してきた事実を考察の材料に加える気もないということだ。
そこで質問の解釈を変えてみよう。「アリクイの鼻が長いのは何で?」→「アリクイの長期間に渡る生存に役立ってきた重要な環境要因がいくつか考えられるとして、特にその中で、鼻が長いことに関連するものは何か?」とする。こうすれば答えは明確に決まる。つまり、「長い鼻で食べやすいアリという生物がまわりにウヨウヨしていた」ということである。
ここでもう一度注意を。上の答えは「アリクイの鼻が長い理由」ではなく、「鼻が長いアリクイが生き残ってこれた理由」である。実際、アリクイのまわりに大きいネズミしかいなかったら彼らは絶滅していただろうし、長期間に渡ってアリが彼らのまわりに居続けることなど全く保証されていなかった。アリを食べるために進化したのではなく、進化したらアリを食べざるを得なかったのだ。
私たちは、アリクイの鼻が長い理由を聞かれたらまず解釈変換を行って「長い鼻で食べやすいアリという生物がまわりにウヨウヨしていたこと」という回答を導き、さらに再変換を行って「アリを食べるのに便利だから」と答えている。一般に、質問者はなるべく解釈変換が少なくて済む発話をしなければならないが、回答者もある程度は解釈変換の努力をする必要がある。逆に言えば、多くの解釈変換が必要な発話を許すのなら、テキトーな回答も許されなければ不公平である。
※回答に変換をかけているのだから、テキトーな回答をするほうが面倒くさいのではないかというツッコミがあるかもしれないが、それは違う。テキトーじゃない回答をするのには、まず質問の解釈をどのように変えたのかから説明する必要があるからだ。
※mic314はwiiの428というゲームにでてくるタマというキャラクターによく似ているなぁ・・・と密かに思っている人。べつに親しくはない。
mic314とspinel3の会話を引用:
m: "女性は月刊、男性は週刊、って、なんでだろう、という議論中。…しかし、結論出ず。なんでなんだろーっ。"
s: "それってどういう議論ですか?"
m: "雑誌や漫画など、女性誌は月刊が多く、男性誌は週刊が多い・・・という実感があり、なぜ違うんだろう…という話をしてました!"
面白いと思うのは実はこの議論の内容そのものではなく、「なんでだろう」と理由を考えているところだ。理由という言葉は普通、ある人がなにか行動をした時の意図であったり、結果に対する原因という意味で使われる。上で問題になっているのは後者のほうなのだが、若い頃に考えていたことの後遺症か何か知らないが、理由というとどうしても意図的なニュアンスを感じてしまう。
むかし考えていたことというのは、生物の進化に関する話。
例えば世界には変わった姿形をした生物がいるが、彼らはどうしてそういう形になったんだろう?
「アリクイの鼻が長いのは何で?」と聞かれたら「アリを食べるのに便利だから」と説明する人は結構いると思うが、アリクイ自身がそう思って鼻を伸ばしたわけではない。「アリを食べるのに便利なように進化したから」と説明しても、「何で他のエサではなく"アリ"がターゲットなのか?」と聞き返されたとき困るだろう。
アリクイの祖先がいて、突然変異によって何種類かの子孫に分岐したとしよう。
その1つがアリクイで、理由もなく鼻が長くて先が細かった。それはアリを食べるのに適していて
アリは栄養価が高くてどこにでもたくさんいたのでアリクイは生き残ることができた。
仮にそうだとすると、アリクイの鼻が長い理由は、単に彼らの生態圏で生き残ることができる姿形のレパートリーに「鼻が長い、アリクイのような姿形」が含まれていただけということになる。
さて、上の理由と、「アリを食べるのに便利だから」という説明はどれくらい違うだろうか?
一見して、アリクイのような姿形が生き残りやすいために生き残ったというのなら、その姿形が生き残りやすかった理由はアリを食べやすいことなのだから、「アリを食べるのに便利だから」と言っても問題なさそうに思える。
※そしてこれが自分なりの結論なのだが、反論も思い浮かぶ。以下、それに対する自問自答。
でも、質問は「アリクイの鼻が長いのは何で?」だった。この意味が「いま目の前にいるアリクイの鼻が長いのは何で?」であれば、その答えは「そのような遺伝情報をもって生まれてきて、なおかつ無事に育ったから」となり、「何でそんな風に進化したの?」であれば「たまたま」というしかない。
なぜなら、その姿形が生き残りやすいかどうかは長い時間テストしてみなければ分からないからだ。
先祖からアリクイが分岐した時点で既にその鼻は長い。この理由と、現代のこの日にアリクイの鼻が長い理由は同じであると仮定しよう。すると、前者の時点ではその姿形が生き残りやすいかどうかなんて分からないのだから、アリクイの鼻が長い理由は「アリを食べるのに便利だから」ではありえない。分岐がランダムな突然変異で起こるのであれば、その時点でアリクイがアリクイの姿形をしているのは「たまたま」だ。よって後者の時点でも理由は同様である。
というわけで「自分なりの結論」が否定されてしまった。しかし上で仮定したことは生産的な議論を生まないので棄却するべきと思う。前者の時点でアリクイの鼻が長い理由はたまたまであるというのは確かにその通りだが、後者の時点でも同じことしか言えないとすれば、それは質問を好意的に解釈する気も、アリクイが長い時間にわたって生存してきた事実を考察の材料に加える気もないということだ。
そこで質問の解釈を変えてみよう。「アリクイの鼻が長いのは何で?」→「アリクイの長期間に渡る生存に役立ってきた重要な環境要因がいくつか考えられるとして、特にその中で、鼻が長いことに関連するものは何か?」とする。こうすれば答えは明確に決まる。つまり、「長い鼻で食べやすいアリという生物がまわりにウヨウヨしていた」ということである。
ここでもう一度注意を。上の答えは「アリクイの鼻が長い理由」ではなく、「鼻が長いアリクイが生き残ってこれた理由」である。実際、アリクイのまわりに大きいネズミしかいなかったら彼らは絶滅していただろうし、長期間に渡ってアリが彼らのまわりに居続けることなど全く保証されていなかった。アリを食べるために進化したのではなく、進化したらアリを食べざるを得なかったのだ。
私たちは、アリクイの鼻が長い理由を聞かれたらまず解釈変換を行って「長い鼻で食べやすいアリという生物がまわりにウヨウヨしていたこと」という回答を導き、さらに再変換を行って「アリを食べるのに便利だから」と答えている。一般に、質問者はなるべく解釈変換が少なくて済む発話をしなければならないが、回答者もある程度は解釈変換の努力をする必要がある。逆に言えば、多くの解釈変換が必要な発話を許すのなら、テキトーな回答も許されなければ不公平である。
※回答に変換をかけているのだから、テキトーな回答をするほうが面倒くさいのではないかというツッコミがあるかもしれないが、それは違う。テキトーじゃない回答をするのには、まず質問の解釈をどのように変えたのかから説明する必要があるからだ。
2010年6月9日水曜日
判断より認知 〜自動車学校での話から〜
なぜか分からないが久しぶりに自動車学校のエピソードを思い出した。
僕は兵庫県の三田自動車学校で免許をとったのだが、そこでの講義で印象深いものがある。
※ちなみに三田自動車学校は略称をSAS(Sanda Automobile School)といい、教習車の側面にはでかでかとその文字が書かれていた。一方、睡眠時無呼吸症候群のこともSASという(Sleep Apnea Syndrome)。なのでSASという名前はカッコ悪いなぁと思っていた。他にもスカンジナビア航空とかイギリス陸軍とかSerial Attached SCSIなど全てSASといい、かぶりまくりである。どうでもいい話だが。
で、ある講義で教官が「認知と判断ではどちらが大切でしょう?」と生徒に質問したところ、
まず「認知だと思う人?」に対して手を上げた人はほんの数人しかいなかったことにびっくりしたのだ。
これはつまり、何かアクシデントなりインシデントなりが起こってそれに対処しようとする場合、
どうすべきか判断するのと、インシデントを認知するのとどっちが大事か?という質問なのだが、
大半の人は「判断する」ほうが大事と答えた。
私たちドライバーは、若い人のほうが交通事故を起こしやすいことを知っている。
でもその理由を求められた時、年をとったほうが判断力が向上するからだと、つい説明しがちではないだろうか?免許を持っている人はもはや、判断より認知のほうが重要であることを知っているにもかかわらず。このことは、私たちは年をとって運転がうまくなってもなお、自分がそのようにうまく運転できる理由を意識していないことを示していると考えられる。
僕が自分自身の中をのぞいてみたところによれば、年をとって運転がうまくなるのは判断力より認知力の向上が圧倒的に寄与していると思う。なぜなら、現実的に起こりやすいどのようなインシデントに対しても、有力な解答がそんなに多くあるわけではなく、その解答を見つけることは若いドライバーでも十分可能であるからだ。そうでなければ免許など与えてはいけない。
同一のインシデントであっても、事故を起こしにくいドライバーにとってはそれが重要なインシデントでありえ、事故を起こしやすいドライバーにとってはインシデントとして認識されすらしないということがありうるだろう。誰の目にも明らかな、アクシデントに発展しそうなインシデントであればそんなことはないが、一見無視して問題なさそうなものほど認知力がものをいう。つまり、問題を与えればドライバーなら誰でも解けるが、目の前で起こっている何事かを問題と思うか思わないかは判断力によっては決められないということだ。
私たちは、分かってるんだけどついやってしまう、あるいはやるべきなのに放っておいてしまうことがある。分かってるのに思い通りにできないのは何とも不思議だし、その不思議さを何回経験しても全く堪えない神経の太さはさらに不思議だ。その理由の1つには、分かっている時と、思い通りにできないでいる時が異なるということがあるだろう。
例えば何か悪い習慣をやめようとしていて、ついそれをやってしまったとする。この場合、それをやってしまったまさにその時には、それが自分にとって重要なインシデントであるという認知ができていなかったのである。一方、やめようとしていながらなかなかやめられない自分を後から振り返って意識した時には、確かに「それをやめるべきである」ことを「分かって」いるだろう。前者では「まさにその時」しか認知すべきタイミングがなかったのに対して、後から振り返ることは「まさにその時」以外であればいつだってできる。よって、だいたいの時間において自分は「分かって」いるのだと思い込んでしまう。
しかし、分かっているべきタイミングは「まさにその時、以外」ではなく「まさにその時」であることは明白であって、そうでなければ分かっていても大した意味はない。重要なインシデントを重要なインシデントとして認知し意識にのぼらせることがまず重要で(そしてこれは意識的には行えない!)、次にそのインシデントを「まさにその時」処理できるのが上手なドライバーである。こういったことを判断力によって行えると考える人間の性向が、あの日の生徒たちの回答になって現れていたのかなぁと、そんなことを考えた。
僕は兵庫県の三田自動車学校で免許をとったのだが、そこでの講義で印象深いものがある。
※ちなみに三田自動車学校は略称をSAS(Sanda Automobile School)といい、教習車の側面にはでかでかとその文字が書かれていた。一方、睡眠時無呼吸症候群のこともSASという(Sleep Apnea Syndrome)。なのでSASという名前はカッコ悪いなぁと思っていた。他にもスカンジナビア航空とかイギリス陸軍とかSerial Attached SCSIなど全てSASといい、かぶりまくりである。どうでもいい話だが。
で、ある講義で教官が「認知と判断ではどちらが大切でしょう?」と生徒に質問したところ、
まず「認知だと思う人?」に対して手を上げた人はほんの数人しかいなかったことにびっくりしたのだ。
これはつまり、何かアクシデントなりインシデントなりが起こってそれに対処しようとする場合、
どうすべきか判断するのと、インシデントを認知するのとどっちが大事か?という質問なのだが、
大半の人は「判断する」ほうが大事と答えた。
私たちドライバーは、若い人のほうが交通事故を起こしやすいことを知っている。
でもその理由を求められた時、年をとったほうが判断力が向上するからだと、つい説明しがちではないだろうか?免許を持っている人はもはや、判断より認知のほうが重要であることを知っているにもかかわらず。このことは、私たちは年をとって運転がうまくなってもなお、自分がそのようにうまく運転できる理由を意識していないことを示していると考えられる。
僕が自分自身の中をのぞいてみたところによれば、年をとって運転がうまくなるのは判断力より認知力の向上が圧倒的に寄与していると思う。なぜなら、現実的に起こりやすいどのようなインシデントに対しても、有力な解答がそんなに多くあるわけではなく、その解答を見つけることは若いドライバーでも十分可能であるからだ。そうでなければ免許など与えてはいけない。
同一のインシデントであっても、事故を起こしにくいドライバーにとってはそれが重要なインシデントでありえ、事故を起こしやすいドライバーにとってはインシデントとして認識されすらしないということがありうるだろう。誰の目にも明らかな、アクシデントに発展しそうなインシデントであればそんなことはないが、一見無視して問題なさそうなものほど認知力がものをいう。つまり、問題を与えればドライバーなら誰でも解けるが、目の前で起こっている何事かを問題と思うか思わないかは判断力によっては決められないということだ。
私たちは、分かってるんだけどついやってしまう、あるいはやるべきなのに放っておいてしまうことがある。分かってるのに思い通りにできないのは何とも不思議だし、その不思議さを何回経験しても全く堪えない神経の太さはさらに不思議だ。その理由の1つには、分かっている時と、思い通りにできないでいる時が異なるということがあるだろう。
例えば何か悪い習慣をやめようとしていて、ついそれをやってしまったとする。この場合、それをやってしまったまさにその時には、それが自分にとって重要なインシデントであるという認知ができていなかったのである。一方、やめようとしていながらなかなかやめられない自分を後から振り返って意識した時には、確かに「それをやめるべきである」ことを「分かって」いるだろう。前者では「まさにその時」しか認知すべきタイミングがなかったのに対して、後から振り返ることは「まさにその時」以外であればいつだってできる。よって、だいたいの時間において自分は「分かって」いるのだと思い込んでしまう。
しかし、分かっているべきタイミングは「まさにその時、以外」ではなく「まさにその時」であることは明白であって、そうでなければ分かっていても大した意味はない。重要なインシデントを重要なインシデントとして認知し意識にのぼらせることがまず重要で(そしてこれは意識的には行えない!)、次にそのインシデントを「まさにその時」処理できるのが上手なドライバーである。こういったことを判断力によって行えると考える人間の性向が、あの日の生徒たちの回答になって現れていたのかなぁと、そんなことを考えた。
2010年6月6日日曜日
女性に関する疑問が昔より少し氷解してきた件
読売新聞で連載している漫画「あたしんち」にすごく共感できるシーンがあって、それがずっと頭に残っている。主人公であるみかんの父と母が2人で旅行にいき、電車の中で母が「あれいる?これ飲む?」などと父をかまっているうちに父が(YesかNoで答えられないような質問に対しても)「う・・・」しか言わなくなってしまうというものだ。
これはなかなか、女性には理解できないだろう。う・・・しか言わなくなるのは極端としても、女性が男性を相手に選び2人で話していたらだいたいのケースでは女性の口数のほうが多くなり男性は最終的に聞き役にまわり、そのうちイライラしてきてよく分からないところにツッコミを入れだし何故かしょうもないケンカに発展することは世間的にありふれているだろう。いずれにしても、話し言葉をインプットする時の許容量は女性より男性のほうが格段に劣っていると思えてならない。
そしてもちろん、少なくとも話し言葉に関してはインプットだけでなくアウトプットも女性のほうが優れているように感じる。そのあたりに興味があって、ガールズトーク(以下GT)の研究をしてみた。その定義からいって、GTの現場に男である僕が居合わせることはできないので、グータンヌーボその他のテレビ番組を参考にすることになる。
GTを見ていてまず思うのは、「よくしゃべるなー」とか「よくこんな簡単に知らない人同士が仲良くなるね」とか「また恋バナか」とかいったことだ。それぞれについて補足していえば、「よく続くなー」「年が離れてても打ち解けられるのがすごい」「あんたがたそんなに情報交換しておきながらどうしてそんなに恋愛を失敗する?」などというのもある。しかし総じていえば、すごい。情報処理の能力がハンパないとしか思えない。
女性は一体、世界のことをどれくらい正確に認識しているのだろう?というのは昔からの疑問だった。言語を操る能力や、実際の会話の場で表情やイントネーションを瞬時に読み取って無難な流れにもっていく能力、そういったものはどう贔屓目にみても男性より優れていて、かたや男はというと、空間認知が優れているとかいったってそれがどうしたという感じだし、体力面以外で何かアドバンテージがあるとすれば「(現実的か否かに関わらず)特定の一方向に問題解決する執念」ぐらいしか思い浮かばない。
女性に対して感じる圧倒的な能力にもかかわらず、しかしいまいち、その能力差ほどには女性の世界認知が優れていると感じないのは何故か?つまり、第3補足でもあげたように、女性だって男性並みに失敗をするのだとすればそれは何故か?
ちょっと話は変わって、最近哲学書を読んでいて思うことがあった。哲学というのは、普通の人から見れば当たり前のことを根掘り葉掘り疑って事細かく分解し1つ1つ亀の歩みのような遅さでゆっくりと妥当性を確認していく。例えば、ものが見えるのは何故か?と問えば、普通の人は「目に光が入るから」と言うかもしれない。でも哲学者にいわせれば、「目と同じ仕組みの機械があったとして、それに光が入ったらその機械はものが見えているといえるか?」という具合だ。言われてみれば不思議なところはある。それでも普通の人は、解決しなくても生活するのに困らない疑問に立ち止まったりはしない。
哲学者というのは、普通の人が直感的に分かることが分からないがゆえに考えるのだと言った人がいる。別の例でいえば、経営の意思決定をするのに直感的な決定を下す名人がいたとして、その人は実際にその決定を「直感的に」行うことを躊躇ったりはしない。常人があれこれ市場分析して数値を比較してやっと出すことのできる結論を、名人は直感的に導きだす。考えるのは確信がないためである(逆にいうと、考えたければ普段確信していることを疑わなければいけない)。
人間は、意識しなくても高度なことをやってのける。だからこそ、「なぜ人間はこんなことができるのか?」という問に答えるのが難しいのだ。ごく基本的な人間の生存機能に関してさえそうなのだから、芸術などの高次技能についてはなおのことだろう。
さて、このことが、「女性に対して感じる圧倒的な能力にもかかわらず、しかしいまいち、その能力差ほどには女性の世界認知が優れていると感じないのは何故か?」という先の疑問に答えるのに役立つのではないか。つまり、いかに技能が優れていても(高次技能であればなおさら)、それ自体の成り立ちや応用範囲まで考えが及んでいるとは限らないということだ。
GTを行う彼女らにとっては、それが周囲の女性との関係を円満に保つ単なる手段であり、あるいは純粋に話すこと自体が楽しみであり、何故自分が男性よりうまく話せるかなんてどうでもいいことなのだ。
それはゲームに熱中する男が、なぜ自分がゲームをうまくできるか気にしないのと変わらない。少なくとも僕が女性に関して感じていた謎の大ギャップの一部は、そう思うことで解決した。
これはなかなか、女性には理解できないだろう。う・・・しか言わなくなるのは極端としても、女性が男性を相手に選び2人で話していたらだいたいのケースでは女性の口数のほうが多くなり男性は最終的に聞き役にまわり、そのうちイライラしてきてよく分からないところにツッコミを入れだし何故かしょうもないケンカに発展することは世間的にありふれているだろう。いずれにしても、話し言葉をインプットする時の許容量は女性より男性のほうが格段に劣っていると思えてならない。
そしてもちろん、少なくとも話し言葉に関してはインプットだけでなくアウトプットも女性のほうが優れているように感じる。そのあたりに興味があって、ガールズトーク(以下GT)の研究をしてみた。その定義からいって、GTの現場に男である僕が居合わせることはできないので、グータンヌーボその他のテレビ番組を参考にすることになる。
GTを見ていてまず思うのは、「よくしゃべるなー」とか「よくこんな簡単に知らない人同士が仲良くなるね」とか「また恋バナか」とかいったことだ。それぞれについて補足していえば、「よく続くなー」「年が離れてても打ち解けられるのがすごい」「あんたがたそんなに情報交換しておきながらどうしてそんなに恋愛を失敗する?」などというのもある。しかし総じていえば、すごい。情報処理の能力がハンパないとしか思えない。
女性は一体、世界のことをどれくらい正確に認識しているのだろう?というのは昔からの疑問だった。言語を操る能力や、実際の会話の場で表情やイントネーションを瞬時に読み取って無難な流れにもっていく能力、そういったものはどう贔屓目にみても男性より優れていて、かたや男はというと、空間認知が優れているとかいったってそれがどうしたという感じだし、体力面以外で何かアドバンテージがあるとすれば「(現実的か否かに関わらず)特定の一方向に問題解決する執念」ぐらいしか思い浮かばない。
女性に対して感じる圧倒的な能力にもかかわらず、しかしいまいち、その能力差ほどには女性の世界認知が優れていると感じないのは何故か?つまり、第3補足でもあげたように、女性だって男性並みに失敗をするのだとすればそれは何故か?
ちょっと話は変わって、最近哲学書を読んでいて思うことがあった。哲学というのは、普通の人から見れば当たり前のことを根掘り葉掘り疑って事細かく分解し1つ1つ亀の歩みのような遅さでゆっくりと妥当性を確認していく。例えば、ものが見えるのは何故か?と問えば、普通の人は「目に光が入るから」と言うかもしれない。でも哲学者にいわせれば、「目と同じ仕組みの機械があったとして、それに光が入ったらその機械はものが見えているといえるか?」という具合だ。言われてみれば不思議なところはある。それでも普通の人は、解決しなくても生活するのに困らない疑問に立ち止まったりはしない。
哲学者というのは、普通の人が直感的に分かることが分からないがゆえに考えるのだと言った人がいる。別の例でいえば、経営の意思決定をするのに直感的な決定を下す名人がいたとして、その人は実際にその決定を「直感的に」行うことを躊躇ったりはしない。常人があれこれ市場分析して数値を比較してやっと出すことのできる結論を、名人は直感的に導きだす。考えるのは確信がないためである(逆にいうと、考えたければ普段確信していることを疑わなければいけない)。
人間は、意識しなくても高度なことをやってのける。だからこそ、「なぜ人間はこんなことができるのか?」という問に答えるのが難しいのだ。ごく基本的な人間の生存機能に関してさえそうなのだから、芸術などの高次技能についてはなおのことだろう。
さて、このことが、「女性に対して感じる圧倒的な能力にもかかわらず、しかしいまいち、その能力差ほどには女性の世界認知が優れていると感じないのは何故か?」という先の疑問に答えるのに役立つのではないか。つまり、いかに技能が優れていても(高次技能であればなおさら)、それ自体の成り立ちや応用範囲まで考えが及んでいるとは限らないということだ。
GTを行う彼女らにとっては、それが周囲の女性との関係を円満に保つ単なる手段であり、あるいは純粋に話すこと自体が楽しみであり、何故自分が男性よりうまく話せるかなんてどうでもいいことなのだ。
それはゲームに熱中する男が、なぜ自分がゲームをうまくできるか気にしないのと変わらない。少なくとも僕が女性に関して感じていた謎の大ギャップの一部は、そう思うことで解決した。
2010年5月18日火曜日
健康について
今日、5月17日は日本高血圧学会などが定めた「高血圧の日」。昨年2月に高血圧のため脳出血で倒れ、同5月に復帰した漫才コンビ「宮川大輔・花子」の宮川大輔さん(57歳)は花子さんとともに、高血圧の日キャンペーン「腕をまくろう、ニッポン!」で高血圧の怖さと脳卒中予防の重要さの啓発に当たっている。
08/5/13 上毛新聞記事より
僕は時々疑問に思うんだが、普段健康に気をつけていない人が病に倒れ、そこで初めて健康の大切さに気づいて生活習慣の改善を始めるパターンがあまりにも多すぎる。リスクを避けるため好きなものを食べずに我慢して人生の楽しみを減じるなんてナンセンス、と言っていた人が病気になったとたんそれをやめるなんてのは、要するに想像力や覚悟が足りなかったのだ。
人間の体は、常識に照らして考えれば明らかによろしくない生活習慣を続けても、そうすぐに病気になることはない。そこが健康問題の難しいところで、「今までこういう生活を続けてきたのに大丈夫だったんだから、これからも大丈夫だろう」という訳の分からない帰納的推論を言い訳に使って自分や家族をだます。
しかし、その考えがまるでダメなことは統計が十分すぎるほど示している。論理が示すのではない。健康問題の意思決定は論理的にやってはダメなのだ。例えば、手洗いやうがいが有効であることを論理的に説明することはできないし素早く実感することさえ難しい。だから私たちはそれを子供の頃からの習慣にしてしまっているわけだ。
大輔の食生活はあきらかに異常で、それは花子も分かっていたはずだ。しかし大輔は注意されても、大丈夫大丈夫と主張しただろう。あるいはテキトーな態度でかわしただろう。そこで花子が「根本的な生活改善をせよ」と追求できないのは、まさに健康問題の非論理性にある。つまり「今のままの生活を続けていたら間違いなく病気になる」ということを断言できないがために自信を持っていい返せない。自信をもてるのは大輔が病気になった後だ。これでいいのか?
手洗いを習慣にするのなら、常識的によくない生活習慣は機械的に排除する習慣をつけるべきだ。また、家族のよくない生活習慣についてお互いに言い合う場をつくることも有意義だろう。はっきりいって、自己責任の名のもとに完全な自由を個人に与えることは意味のあることと考えられない。健康についていえば、何を食べようと皆さんの自由ですよといっておきながら医療費削減の問題に苦しむのはおかしい、それくらいなら初めから完全な自由でなく生活習慣ガイドラインの強い推奨を行うべきだ。自由とセットになる概念は禁止だけではない。
現代の日本はどんな人格についても、そういう人もいるよねーで片付けてしまう傾向にある。だから差別意識は減ったのかもしれないが、かわりにぶつからなくなった。自分の生活習慣を、広く言えば考え方を、否定されない。しかし、立脚点を明らかにしさえすれば、どんな意見でも否定のしようはあるし肯定のしようもあるのだ。意見Aに対してポジションBから見れば反対意見Cが主張でき、ポジションCから見れば肯定意見Dが主張できる。
逆にいうと意見Aとは「ポジションBから見れば反対意見Cが主張でき、ポジションCから見れば肯定意見Dが主張できる」ような意見である。Aさんが意見Aを言い、もし二人から意見Cと意見Dが返ってきたなら、彼は自分の意見が3人の中でどういう位置関係にあるのか掴むことができる。「Aさんは意見Aを持ってる人なんだよ。そういう人もいるよねー」で済ませていたら、それは不可能だ。
健康に気をつけろというと、健康オタクに話が及ぶことがある。健康に気をつけて気をつけて、そればっかりに意識を振り向けて一生を終えるのはクォリティオブライフとしてどうなのかと。もちろん、健康的な生活をすることが「生まれつき」苦痛ならそれは問題だ。でもそんな人大勢いるだろうか?だいたいが、今の怠惰な生活を正当化するための言い訳にしか見えない。
私たちは基本的に、好みをコントロールするべきである。好きなものを我慢するくらいなら・・・というとき、不幸なのはその不健康なものを好きになってしまったことだ。でも、それを好きであることにどれくらい自分のアイデンティティがあるというんだろうか?よく考えてみるといい。ほんとに、それを大量に食べることがそんなに楽しいか?実は楽しいのは20%くらいで、他は全部惰性だったりしないか?
小さい子供ならともかく、大人なら自分の趣味についてたくさんの選択肢があるだろう。今の自分にどういう趣味をプラスすれば自然と健康的な生活になるか考え、好きな趣味を我慢しなくてもいいような人間になればいい。今好きなものは、たまたまの巡り合わせで醍醐味を知ったものだ。それはそれで素晴らしい。でも、良いものはたくさんとればなお良いというわけでは全くない。たまにしかとらないから密度が高くなり、感覚が鋭くなったりすることだってある。それで空いた時間は他にまわしてはどうか。
人間は年をとると抽象的な思考力は高まると言われている。筋力や計算力は衰えても、若いときに見えない景色が見える時がくる。時代も大きく変わって色々な新発見・技術が登場するだろう。そういう未来の自分に健康的な体を残そうと考えないのは僕にはよく分からない。もちろん、どんなに気をつけたって死ぬときは死ぬ。でも、小さいリスクも積もれば山となることを理解していれば、生活習慣の改善に対して投げやりになることはないはずだ。
08/5/13 上毛新聞記事より
僕は時々疑問に思うんだが、普段健康に気をつけていない人が病に倒れ、そこで初めて健康の大切さに気づいて生活習慣の改善を始めるパターンがあまりにも多すぎる。リスクを避けるため好きなものを食べずに我慢して人生の楽しみを減じるなんてナンセンス、と言っていた人が病気になったとたんそれをやめるなんてのは、要するに想像力や覚悟が足りなかったのだ。
人間の体は、常識に照らして考えれば明らかによろしくない生活習慣を続けても、そうすぐに病気になることはない。そこが健康問題の難しいところで、「今までこういう生活を続けてきたのに大丈夫だったんだから、これからも大丈夫だろう」という訳の分からない帰納的推論を言い訳に使って自分や家族をだます。
しかし、その考えがまるでダメなことは統計が十分すぎるほど示している。論理が示すのではない。健康問題の意思決定は論理的にやってはダメなのだ。例えば、手洗いやうがいが有効であることを論理的に説明することはできないし素早く実感することさえ難しい。だから私たちはそれを子供の頃からの習慣にしてしまっているわけだ。
大輔の食生活はあきらかに異常で、それは花子も分かっていたはずだ。しかし大輔は注意されても、大丈夫大丈夫と主張しただろう。あるいはテキトーな態度でかわしただろう。そこで花子が「根本的な生活改善をせよ」と追求できないのは、まさに健康問題の非論理性にある。つまり「今のままの生活を続けていたら間違いなく病気になる」ということを断言できないがために自信を持っていい返せない。自信をもてるのは大輔が病気になった後だ。これでいいのか?
手洗いを習慣にするのなら、常識的によくない生活習慣は機械的に排除する習慣をつけるべきだ。また、家族のよくない生活習慣についてお互いに言い合う場をつくることも有意義だろう。はっきりいって、自己責任の名のもとに完全な自由を個人に与えることは意味のあることと考えられない。健康についていえば、何を食べようと皆さんの自由ですよといっておきながら医療費削減の問題に苦しむのはおかしい、それくらいなら初めから完全な自由でなく生活習慣ガイドラインの強い推奨を行うべきだ。自由とセットになる概念は禁止だけではない。
現代の日本はどんな人格についても、そういう人もいるよねーで片付けてしまう傾向にある。だから差別意識は減ったのかもしれないが、かわりにぶつからなくなった。自分の生活習慣を、広く言えば考え方を、否定されない。しかし、立脚点を明らかにしさえすれば、どんな意見でも否定のしようはあるし肯定のしようもあるのだ。意見Aに対してポジションBから見れば反対意見Cが主張でき、ポジションCから見れば肯定意見Dが主張できる。
逆にいうと意見Aとは「ポジションBから見れば反対意見Cが主張でき、ポジションCから見れば肯定意見Dが主張できる」ような意見である。Aさんが意見Aを言い、もし二人から意見Cと意見Dが返ってきたなら、彼は自分の意見が3人の中でどういう位置関係にあるのか掴むことができる。「Aさんは意見Aを持ってる人なんだよ。そういう人もいるよねー」で済ませていたら、それは不可能だ。
健康に気をつけろというと、健康オタクに話が及ぶことがある。健康に気をつけて気をつけて、そればっかりに意識を振り向けて一生を終えるのはクォリティオブライフとしてどうなのかと。もちろん、健康的な生活をすることが「生まれつき」苦痛ならそれは問題だ。でもそんな人大勢いるだろうか?だいたいが、今の怠惰な生活を正当化するための言い訳にしか見えない。
私たちは基本的に、好みをコントロールするべきである。好きなものを我慢するくらいなら・・・というとき、不幸なのはその不健康なものを好きになってしまったことだ。でも、それを好きであることにどれくらい自分のアイデンティティがあるというんだろうか?よく考えてみるといい。ほんとに、それを大量に食べることがそんなに楽しいか?実は楽しいのは20%くらいで、他は全部惰性だったりしないか?
小さい子供ならともかく、大人なら自分の趣味についてたくさんの選択肢があるだろう。今の自分にどういう趣味をプラスすれば自然と健康的な生活になるか考え、好きな趣味を我慢しなくてもいいような人間になればいい。今好きなものは、たまたまの巡り合わせで醍醐味を知ったものだ。それはそれで素晴らしい。でも、良いものはたくさんとればなお良いというわけでは全くない。たまにしかとらないから密度が高くなり、感覚が鋭くなったりすることだってある。それで空いた時間は他にまわしてはどうか。
人間は年をとると抽象的な思考力は高まると言われている。筋力や計算力は衰えても、若いときに見えない景色が見える時がくる。時代も大きく変わって色々な新発見・技術が登場するだろう。そういう未来の自分に健康的な体を残そうと考えないのは僕にはよく分からない。もちろん、どんなに気をつけたって死ぬときは死ぬ。でも、小さいリスクも積もれば山となることを理解していれば、生活習慣の改善に対して投げやりになることはないはずだ。
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