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2011年2月20日日曜日

ヒトの繁栄について

もし人類が未来永劫に渡って絶滅しないことが保証されていたとしたら。

例えば仮に人間個人が、グーグルのBig-Table上の単一オブジェクトみたいな存在になり、しかもそのインフラが宇宙の隅々まで行き渡っており、別の宇宙にある同様のインフラと通信・同期することすら可能であるとすれば、だいたい「絶滅しない条件」が整っていると言えるだろう。というかそういうことにしよう。そうなった時、 ーもはや彼らは人間と呼べない感じになってしまっているので、仮想人間と呼ぼうー 仮想人類は「何のためにここまで増えたのか?」と思わないだろうか?

ここで、仮想人類は何人の独立した仮想個人から構成されるのがベストか?という問題を考える
{*「独立した」というのは、分散データ(バックアップ)を含まないという意味。「仮想人類」は、仮想人間の一人一人(仮想個人)から成る集団のこと }。
素朴な言葉で言えば、世界が100人の村であるのと、数億の国の集合であるのとではどちらがいいか?ということである。

なぜ増える必要があるのか?この疑問に対する冷静な回答の一つは、「全体として増えるのは単なる結果であって、個別の生殖活動が行われる動機は、個人的とさえ言えるほど小さい理由である」というものだろう。そうだとすれば、人類は何も考えずにその規模を拡大していることになる。しかしながら、そのことが問題になるのは、単にヒトの生息環境として用意されているのがこの地球しか今のところないからである。

つまり私たちは、非常に差し迫った環境問題以外については、「何も考えずに規模を拡大している」ことに対して何の内省も行っていないのである。仮想人類の文脈では生息環境の広さに関する制限はないので、この「内省」が行われやすくなると思われる。何人の村ならいいのか?100人の村より60億人の村のほうが、あるいはもっと大人数の村のほうが幸せな社会だと言えるのか?逆に、何人であろうと
大した相違はなくて、むしろゼロでも価値は同じなのではないか、といったような内省である。

このように考えるのは、あまり現実主義的ではないように映るし、実際その通りだと思う。しかしながら、人生に意味はあると考える人々にとっては、この問題は無意味ではないだろう。何しろ、一人一人の人生にオリジナルな意味があるのなら、100人の村より60億人の村のほうが、意味の総量は多くなるに決まっているのだから。

そう考える一方、多ければ多いほど良いとも思えないだろう。よって、「人生には意味がないことにする」か、「(ゼロから無限の間において)ちょうど良い繁栄規模はこれである、という説得力ある説明を見つけだす」か、「別のシナリオを考える」か、以上のうちいずれかの方針を採って考えを進めなければならない。

個人的には、最後の選択肢を考えているが・・・気が向いたら書くことにする。