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2011年3月22日火曜日

都心における東日本大震災、その微妙な平和ぶり(2)

週明けの3/14(月)は今思うとホワイトデーだがそんなこともちろん忘れていた。
通常業務だというので出社したが予想通り仕事にならず、意味のない日に終わった。

ところで3月末は僕が住んでいる賃貸マンションの更新があり、それに合わせて今の狭い物件から、家賃が安くて部屋が広い近場の物件に引っ越す予定であった。3/22(火)に引越し業者を呼んでいたが、余震は多いし原発の情報は手薄だし食料品は買い占められている、周りの人や実家にいる親もやたらと不安そうにしているので急遽3週間ほど延期し、引越しのためにとっていた1週間ほどの休暇を3/15から取得することにした。

3/15,16は東京で情報収集に明け暮れた。原発で制御系統が海水をかぶり、あれだけの爆発があったのでは、運転停止や炉の封じ込めには成功していると見られるとか言われても全く信用できない。巨大余震が原発付近で起こることも考えられる。もっと情報がでてくるまでとりあえず原発は発電能力が同じであれば全部同じ被害を与えうる(仮定1)と見なし、最悪の事態を想定することにする。こんなのは影響力のある人が発言すべきことではないが、関東圏に住む一般市民としては当然こう考えるところ。

テレビの報道番組によると今回の事故はスリーマイル島原子力発電所事故と似ているらしい(仮定2)。
「1989年の調査で圧力容器に亀裂が入っている事が判明し、異常事態が更に長引いていたならば、チェルノブイリ原子力発電所事故と同様の規模になっていた(仮定3)と言われている。」
仮定1・2・3より「チェルノブイリより発電能力の高い福島原発はチェルノブイリと同等以上の事故につながりうる」ことになる。

※もちろん後になってみれば・・・または、十分な情報(知識も含む)を持つ人にとって仮定1は誤りである。現代の原発は過去の事故を踏まえ、非常に安全な作りになっている。仮定2も何がどのように似ているのか定かではないし、仮定3も何故そのように言われているのかよく分からない。とはいえ、仮定しか与えられていない状況では手持ちの材料で推論するより仕方がない。

チェルノブイリ事故では結局のところ、半径300kmの範囲が(放射線管理区域に指定しなければいけないほどの)放射能汚染を受けた。東京は福島原発から300km範囲内にすっぽり入るので、これから先の情報変化によっては安全地帯ではない。引越しを延期し実家がある兵庫県に帰ったのはそのような判断もあった。実際のところ、16日の早い時点ではまだ引越しを延期するかどうか迷っていたが、こんなとき慎重にならなくていつ慎重になるのだろうという気になり、17日午前に不動産業者や引越し業者に電話を入れ延期の手続きをとった。そして同日夕方、新幹線で兵庫へ。

実家に帰ると特に母親は安心したようであった。15,16日はテレビを見ていて時間が長く感じたと言っていた。僕もそのように感じていたので、親はなおさらだろう。休暇だからといってどこかへ出かけるでもなく、新聞を読んだりツイッターを見たりした。ちなみに関西ではニュースの時間以外、民放では普通の番組をやっていてあまり震災の様子や停電の情報、原発の情報がリアルタイムに入ってこない。だから比較的整理された情報をほどよいインターバルで受け取ることができ、精神的プレッシャーはだいぶ軽減された。アメリカが80kmを避難線としたのにも安心した。

もちろん震災のほうも心配だが、僕にできることは募金くらいしかない。ちょうど、実家の家族が昔からお世話になっている牧師さんが滋賀県のほうに転勤(?)になるというので、3/20(日)ご挨拶がてらミサに行ってきた。震災の募金箱があったので募金し、牧師さんの(震災について何事か語っているのだが比喩が難しくてよく分からない)説教を聞いたり賛美歌を歌ったりした。

終わり際、牧師さんに「久しぶりの方に来ていただいてます」と急に東京の様子を尋ねられ、都心の微妙な平和ぶりを手短に話した。母は「何かしゃべらされると思ったけど先に言われるのもイヤかと思って言わなかった」と言っていた。まぁその通りではあるのだが。ほかにも、別に話をふられてもいないのに何人かが適当に話をしてお開きとなった。田舎のミサらしい感じがして何だか和む。

都心の微妙な平和ぶり・・・今回の感想として、都心では皆かなり冷静であった(買い占めという不可解な出来事はあったものの)。しかしあまり、情報を個々人が求めていく感じがしないところに少し心配を覚える。自分自身を含め、関係者が被災しているような場合には体が自然と動くだろう。でも都心において、地震の被害が結果的に軽微だったからといって、計画停電の区域から外れているからといって、原発から遠くはなれているからといって、いつもと同じことを粛々と続けている人々を見ていると、彼らは一体いつ(身体的反射以外の)行為を計画し決断するのだろうと疑ってしまう。

すぐに逃げろとは言わないが、せめて情報が少なく余震確率が高いうちは活動を控えるべきであるし、企業の経営者は社員に活動を控えさせるべきである。今回の件でよく分かったが、震災の影響を大して受けていない都心企業の経営者が何も決断せず通常勤務を言い渡した場合に社員が単独で決断をすると、そいつは「他の社員が頑張っているのに真っ先に逃げる無責任者」ということになるらしい。正常性バイアスで目が曇っているとしか思えない。

アメリカが原発事故から数日もたたないうちに廃炉を前提とした技術援助を日本に申し入れたという話がある。東電が「自分のところでできるから」と言ったから、という理由で政府はその提案を断った(もしくは保留した)らしい。しかしながら3/22現在の情報によれば、損傷のない5号機と6号機までもが(地元の住民感情を考えれば)廃炉やむなしという見解のようだ。何だかチグハグなように思われる。5・6号機が廃炉なら第2原発も廃炉ではないのか。

個人的な話に戻るけれど、マンションの契約更新をしたので引越しをするモチベーションはいくらか減ってしまった。それでも引越しはしたいと思う。選択や行動をするのに多くの重要な理由を求めてしまうと、やはり人間の行動力というのは徐々に落ちていってしまうだろうから。

都心における東日本大震災、その微妙な平和ぶり(1)

2011/3/11金曜日、東日本大震災があった。
僕がつとめる毎日新聞社ビルでも震度5強の揺れがあり、
天井が落ちたり本が雑誌がぎっしり詰まった僕の席の隣の棚が倒れてきたりした。
近くの九段会館でも天井が落ち、そちらでは運の悪いことに1名お亡くなりになったらしい。

マグニチュード8.8という情報はすぐ入ってきたから、普通に考えて週明けは自宅待機だろう。
なぜなら強い余震がさらに近い場所で起こることがありえ、また天井が落ちるなどの予測不能事態がありえ、
すると九段会館同様の事故がありえるから。1日弱たってから分かったことだが原発(電力)の問題もある。
しかし残念ながら会社に危機意識がなく、この予想は覆された。

3/11地震後は近くの公園に避難指示。その後に帰宅許可がでたので帰ろうとしたが電車が動かない。
会社に戻って行く人も多かったが、電車が長く動かないことも考えられるので
ひと駅ずつ西(帰宅方向)に歩きながら電車の状況(や震災の影響)を確認することに。
とりあえず上司(運のいいことに休み中)に電話をかけるがつながらない。

竹橋から九段下に向かう途中、腰を落ち着けてギャラタブ(スマートフォン)で情報を見るために
プロントなど喫茶店を見て回るが営業を中止しているか持ち帰りのみとなっている所が多かった。
九段下の地下鉄入り口をひとめ見ると大勢の人がたむろしており、まだ電車が動いてないことが分かる。
小諸そばならやっているだろうということで別に食べたくもないがそばを食べた。
こんなに混んでいる小諸そばは初めてだ。

ギャラタブで情報を確認していると、隣に座っていた中国人のおばさんが片言の日本語で話しかけてきた。
中国人はいつも気さくなのかもしれないが、災害時だし既に共通の話題が約束されているから
余計話しかけやすいのだろう。小諸そばは口に合わなかったのか、そばもご飯も大量に残っていた。
ご飯がついているところから見てお腹じたいは減っていたと思われる。
小諸ファンとしては遺憾である。

外を見てもたむろの人々が動き出す気配はないので飯田橋に向かう。
しかし間違えて市ヶ谷方面に歩いてしまい時間を大幅ロス。
東西線の線路沿いに歩いていけば家には着くはずなのだが地下鉄なので線路が見えない。
総武線が動いていればそれで帰れると思ったが動いていなさそうだ。しぶしぶ元の道を戻る。

飯田橋についたのは18時くらいだったか。もうだいぶ暗くなり、外はかなり寒い。
バス停に長蛇の列。たしかに、これに乗れたら高田馬場まで帰れる・・・
でもこんな寒いところで待つ気しないよ。と思いつつも一旦はなまるうどんに退避し、
出てきた時に列が短くなっていれば待ってみようかなと思った。

はなまるうどんのうどんは美味しくて元気がでた。
情報収集も完了し、JRが早々に本日中の運転再開を断念したことを知る。
バス停の列は全く短くなっていない、むしろ伸びている。
しかし往生際わるく、都営大江戸線の様子を見に行ってみることに。

飯田橋の都営大江戸線ホームには初めて行ったが、遠かった。二度と使わないだろう。
結局動いておらず、飯田橋を後にして神楽坂に向かう。
地下鉄ではあんなに近い飯田橋 - 神楽坂間がこんなに時間かかるとは・・・
牛込神楽坂に心を惑わされつつ何とか神楽坂を通り過ぎ、休まず早稲田へ。
どこまで行っても歩いて帰る人達がたくさんいた。

そばとうどんで腹は一杯なものの寒さで限界が訪れ、早稲田のカフェで一服。
20時15分くらいに入ったが、20時半閉店と言われた。
コーヒーを飲んで情報収集している時、グループ会社の知人から電話が。
新宿オフィスがエレベーター動かなくて、23階に来客があった彼女は客を送るため1階まで往復したのだと言う。ふーむ。

もっと高い建物にいる人は大変だったろうな。
東京タワーを外から見ていた人の話じゃ、地震のとき「たわわ、たわわ」と揺れていたそうだ。
そんなこんなで21時ごろ自宅についた。
地震直後にも電話したが、再び実家にPHSで連絡をいれる。
今回の地震では各社携帯がつながりにくい中、PHSとツイッターは非常に役に立ってくれた。

結構しんどかったが、歩いて帰れるのは有り難いことだ。テレビを見ながら、そう思った。