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2010年5月18日火曜日

健康について

今日、5月17日は日本高血圧学会などが定めた「高血圧の日」。昨年2月に高血圧のため脳出血で倒れ、同5月に復帰した漫才コンビ「宮川大輔・花子」の宮川大輔さん(57歳)は花子さんとともに、高血圧の日キャンペーン「腕をまくろう、ニッポン!」で高血圧の怖さと脳卒中予防の重要さの啓発に当たっている。
08/5/13 上毛新聞記事より

僕は時々疑問に思うんだが、普段健康に気をつけていない人が病に倒れ、そこで初めて健康の大切さに気づいて生活習慣の改善を始めるパターンがあまりにも多すぎる。リスクを避けるため好きなものを食べずに我慢して人生の楽しみを減じるなんてナンセンス、と言っていた人が病気になったとたんそれをやめるなんてのは、要するに想像力や覚悟が足りなかったのだ。

人間の体は、常識に照らして考えれば明らかによろしくない生活習慣を続けても、そうすぐに病気になることはない。そこが健康問題の難しいところで、「今までこういう生活を続けてきたのに大丈夫だったんだから、これからも大丈夫だろう」という訳の分からない帰納的推論を言い訳に使って自分や家族をだます。

しかし、その考えがまるでダメなことは統計が十分すぎるほど示している。論理が示すのではない。健康問題の意思決定は論理的にやってはダメなのだ。例えば、手洗いやうがいが有効であることを論理的に説明することはできないし素早く実感することさえ難しい。だから私たちはそれを子供の頃からの習慣にしてしまっているわけだ。

大輔の食生活はあきらかに異常で、それは花子も分かっていたはずだ。しかし大輔は注意されても、大丈夫大丈夫と主張しただろう。あるいはテキトーな態度でかわしただろう。そこで花子が「根本的な生活改善をせよ」と追求できないのは、まさに健康問題の非論理性にある。つまり「今のままの生活を続けていたら間違いなく病気になる」ということを断言できないがために自信を持っていい返せない。自信をもてるのは大輔が病気になった後だ。これでいいのか?

手洗いを習慣にするのなら、常識的によくない生活習慣は機械的に排除する習慣をつけるべきだ。また、家族のよくない生活習慣についてお互いに言い合う場をつくることも有意義だろう。はっきりいって、自己責任の名のもとに完全な自由を個人に与えることは意味のあることと考えられない。健康についていえば、何を食べようと皆さんの自由ですよといっておきながら医療費削減の問題に苦しむのはおかしい、それくらいなら初めから完全な自由でなく生活習慣ガイドラインの強い推奨を行うべきだ。自由とセットになる概念は禁止だけではない。

現代の日本はどんな人格についても、そういう人もいるよねーで片付けてしまう傾向にある。だから差別意識は減ったのかもしれないが、かわりにぶつからなくなった。自分の生活習慣を、広く言えば考え方を、否定されない。しかし、立脚点を明らかにしさえすれば、どんな意見でも否定のしようはあるし肯定のしようもあるのだ。意見Aに対してポジションBから見れば反対意見Cが主張でき、ポジションCから見れば肯定意見Dが主張できる。

逆にいうと意見Aとは「ポジションBから見れば反対意見Cが主張でき、ポジションCから見れば肯定意見Dが主張できる」ような意見である。Aさんが意見Aを言い、もし二人から意見Cと意見Dが返ってきたなら、彼は自分の意見が3人の中でどういう位置関係にあるのか掴むことができる。「Aさんは意見Aを持ってる人なんだよ。そういう人もいるよねー」で済ませていたら、それは不可能だ。

健康に気をつけろというと、健康オタクに話が及ぶことがある。健康に気をつけて気をつけて、そればっかりに意識を振り向けて一生を終えるのはクォリティオブライフとしてどうなのかと。もちろん、健康的な生活をすることが「生まれつき」苦痛ならそれは問題だ。でもそんな人大勢いるだろうか?だいたいが、今の怠惰な生活を正当化するための言い訳にしか見えない。

私たちは基本的に、好みをコントロールするべきである。好きなものを我慢するくらいなら・・・というとき、不幸なのはその不健康なものを好きになってしまったことだ。でも、それを好きであることにどれくらい自分のアイデンティティがあるというんだろうか?よく考えてみるといい。ほんとに、それを大量に食べることがそんなに楽しいか?実は楽しいのは20%くらいで、他は全部惰性だったりしないか?

小さい子供ならともかく、大人なら自分の趣味についてたくさんの選択肢があるだろう。今の自分にどういう趣味をプラスすれば自然と健康的な生活になるか考え、好きな趣味を我慢しなくてもいいような人間になればいい。今好きなものは、たまたまの巡り合わせで醍醐味を知ったものだ。それはそれで素晴らしい。でも、良いものはたくさんとればなお良いというわけでは全くない。たまにしかとらないから密度が高くなり、感覚が鋭くなったりすることだってある。それで空いた時間は他にまわしてはどうか。

人間は年をとると抽象的な思考力は高まると言われている。筋力や計算力は衰えても、若いときに見えない景色が見える時がくる。時代も大きく変わって色々な新発見・技術が登場するだろう。そういう未来の自分に健康的な体を残そうと考えないのは僕にはよく分からない。もちろん、どんなに気をつけたって死ぬときは死ぬ。でも、小さいリスクも積もれば山となることを理解していれば、生活習慣の改善に対して投げやりになることはないはずだ。