3日くらい前、まおらんちという人達に声をかけられた。なんでも、ねずっちボットを作ろうとしていたらすぴー製ねずっちボットを見つけてしまったらしい。ログ
で、これがまおらんち製ねずっちボット。優劣を言うつもりは毛頭ないが、全く違った作りであることは確かなので良い比較対象ができた。まず第一に、ま製はなぞかけという実際の行為を忠実に再現しようとしていることが分かる。
例をひいてみよう。「東京」とかけて、「予定」と説きます。その心は、どちらも「かんこう(観光と刊行)」。これはつまり、東京観光と刊行予定という言葉があって、両方にかんこうという読みが共通して含まれているということだ。
次の例。「終電」とかけて、「土星」と説きます。その心は、どちらも「じこく(時刻と二黒)」。二黒土星(じこくどせい)とは、暦、占いに用いられる九星の一つ。このことを知っていれば意味が分かる。ざっとま製なぞかけを見渡すと、土星と二黒のように、すぐには関連性が分からないものも多い。このへんが課題か。
この発展形を考えるため、自分で作ったなぞかけから例をひく。
厚み とかけまして やり遂げる人 とときます、その心は どちらも意思(石)が強い。
厚みは囲碁の用語で、石が強いことを指す。やり遂げる人は意思が強いというのも、結局同じ意味のことを別の表現で言い換えている。A(厚み)もB(やり遂げる人)も、C(いしがつよい)という共通表現で言い換えることができますよ、というのがこのなぞかけである。
これを考える時の人間の(というか僕の)思考は、石が強い=厚み をまず思い浮かべる。次に「いしがつよい」を何か別の表現で言い換えられないかなと考え、「やり遂げる人」に辿り着く。もう少し詳しくいうと、「いし」はなぞかけに適した語だという認識が予め存在し、これを用いていてなおかつ言い換えが利きそうな文章として「いしが強い」を思い浮かべる。いしを「石」とした場合には「厚み」と言い換えられ、「意思」とした場合には「やり遂げる人」に言い換えられるが、もちろん一発で「いしが強い」を探し当てられるわけではもちろんなく、要は2通りに言い換え可能な表現につきあたるまで探索を繰り返す。
さらに詳しくみよう。まず、このなぞかけを作った時の状況では、お題は自分で自由にだすことができた。だから、「いし」のような特定のものを「自分の中の、なぞかけに適した語データベース」から適当に引っ張り出し、2通りに言い換え可能にするためには「いし」にどんな語をつなげればいいかを色々ためす。
では、お題を自分で選べない時(ねずっちのようにお客さんに出題される場合など)はどうか。
仮に「厚み」と出題されたとする。まずは厚みという語はどんな表現で言い換え可能なのか考える必要があるだろう。しかも言い換えられた表現の中に「なぞかけに適した語」がなければならない。
ということは、「なぞかけに適した語」それぞれと「厚み」という語の関連度を調べればいいのかもしれない。ウェブ検索によって「いし」と「厚み」は関連度が高いと判定されれば、あとはこの「いし」を起点に先ほど(お題を自分で出した時)と同様に2通り言い換え可能表現を探索する。ただしこの場合は片方の言い換えに制約条件がある。
次に、す製を検証してみよう。例をひく。
「桃屋 とかけまして 「鹿角らーゆ」 とときます、その心は次のツイートで!
RT 昨日「鹿角らーゆ」という食べるラー油の類似品食べた。かなり微妙。本家桃屋のは食べたことないけど、ぐーぐる先生曰く似たような味ということなので、食べるラー油ってこんなものなんだなあと思った。」
RT以下全体がこのなぞかけの心だ、意味は自分で読みとけ、と突き放しているのが良くも悪くもこのボットの特徴だ。もちろんこのパターンはあってもよいが、発展形を考えるならば、やはりもっと色々なパターンのなぞかけができるといいだろう。で、とりあえず何故現状す製はこのパターンを採用しているかといえば、ボットの制作難易度とユーザから見た時の面白さのバランスを図った、ということである。
そもそもなぞかけは、面白いものを作ろうと思ったら人間がやっても難しい。なので、面白くするためには人間のツイートを利用するのが手っ取り早いのだ。AとかけてBととく・・・その心がうまくなくても、AとBが登場するCというツイートが見えれば、ボットの心の動き(CのどこからAやBをひろったか、他の語をさしおいてBが選ばれたのは何故か)やC自体の面白さを楽しむことができる。
そういうわけで、ねずっちボットの制作には大きく2つの意味があると思う。1つは「生きた言語空間における自然言語の取り扱い技術、学習技術の習得」。もう1つは「面白さの追求」。どういうなぞかけに対して人間が面白いと思うのか、そのあたりを、実際に面白いなぞかけとつまらないなぞかけを並べてみて比較・分析したり、ま製パターン・す製パターン他にどのようなパターンがなぞかけの範囲の中で考えられるか検討したり。単なるOAuthの練習として始めた課題にしては意外に奥が深い。
JSの設定
2010年5月22日土曜日
オフライン環境の大切さ
学生時代はAUを持ったりツーカーを持ったりしていたが、社会人になってからiPhoneを持つまではずっとwillcomのPHSを使っていた。willcomPHSのフルブラウザなんて使えたもんじゃないので、外にいる時はオフラインも同然だ。ところがiPhoneを持ってからというもの、いつでもどこでもオンラインになった。ツイッターやbrightkiteを始めたし、ブラウザだけじゃなくネットを利用する便利なアプリが山ほどあり、しかも本を読むよりラクなので、例えば喫茶店で腰を下ろしたら何となくiPhoneを取り出しいじってしまう。
これはよろしくないと思った。オフラインであれば何か考えたい時には考え、疲れている時には本を読み、それさえ気が進まない時にはボーっとして頭と目を休められたものを、全く有意義とはいえない(しかも目も頭も休まらない)作業を常にしなければならない。月額固定の通信料を払っている状態ではたくさん使ったほうがトクだという考えがそうさせる。
効率から考えれば、ネットを使うべき作業は3G+モバイル機器ではなくwifi環境+PCで行ったほうがいい。外にいるときのちょっとした時間でネット作業ができるからといって非効率な時間の使い方をしていたら、考える時間を省いたツケがさらなる効率の低下を招くだろう。気が散るものが周囲にあっては、人間考えないのだ。だから書斎にPCは置かないほうがいいし、置いたとしてもネットにつなぐべきではないと思う。
そういうわけでiPhoneは解約して、並行して使っていたPHSはwindows-mobile6.5の機種(hybrid-w03,以下灰鰤)に変更することにした。これは本体代金は高いが、無線LANのアクセスポイントになる機能を持つ。無線LANといってもPHS回線なので(本当は3G回線も選べる。それがhybridの意味なのだが、PHS回線だけ使う分には通信料が全くかからない)通信速度は遅いし、例えばiPhoneからその無線LANにつなぐのにいくつか操作を要するので解約前のiPhoneに比べたら不便なのだが、オフライン環境が重要という考え方からするとこれで十分だ。不便であるからこそ、よっぽどの理由がある時でなければネットにつないだりしない。
最近は SIMフリーのpocket-wifi のような、無線LANに対応したあらゆる機器をいつでもどこでもオンラインにするための商品がでてきている。そもそも公衆無線LANのエリア自体がどんどん広くなっているのだから、長い目で見れば人間の生活圏全体がオンラインになってしまうのかもしれない。ノイズに気を散らさずにすむ空間を構築する必要性はこれからますます重要になってくるだろう。それが書斎のような実体なのか、自己コントロールの精神的技術のようなものなのかは分からないが。
これはよろしくないと思った。オフラインであれば何か考えたい時には考え、疲れている時には本を読み、それさえ気が進まない時にはボーっとして頭と目を休められたものを、全く有意義とはいえない(しかも目も頭も休まらない)作業を常にしなければならない。月額固定の通信料を払っている状態ではたくさん使ったほうがトクだという考えがそうさせる。
効率から考えれば、ネットを使うべき作業は3G+モバイル機器ではなくwifi環境+PCで行ったほうがいい。外にいるときのちょっとした時間でネット作業ができるからといって非効率な時間の使い方をしていたら、考える時間を省いたツケがさらなる効率の低下を招くだろう。気が散るものが周囲にあっては、人間考えないのだ。だから書斎にPCは置かないほうがいいし、置いたとしてもネットにつなぐべきではないと思う。
そういうわけでiPhoneは解約して、並行して使っていたPHSはwindows-mobile6.5の機種(hybrid-w03,以下灰鰤)に変更することにした。これは本体代金は高いが、無線LANのアクセスポイントになる機能を持つ。無線LANといってもPHS回線なので(本当は3G回線も選べる。それがhybridの意味なのだが、PHS回線だけ使う分には通信料が全くかからない)通信速度は遅いし、例えばiPhoneからその無線LANにつなぐのにいくつか操作を要するので解約前のiPhoneに比べたら不便なのだが、オフライン環境が重要という考え方からするとこれで十分だ。不便であるからこそ、よっぽどの理由がある時でなければネットにつないだりしない。
最近は SIMフリーのpocket-wifi のような、無線LANに対応したあらゆる機器をいつでもどこでもオンラインにするための商品がでてきている。そもそも公衆無線LANのエリア自体がどんどん広くなっているのだから、長い目で見れば人間の生活圏全体がオンラインになってしまうのかもしれない。ノイズに気を散らさずにすむ空間を構築する必要性はこれからますます重要になってくるだろう。それが書斎のような実体なのか、自己コントロールの精神的技術のようなものなのかは分からないが。
2010年5月18日火曜日
健康について
今日、5月17日は日本高血圧学会などが定めた「高血圧の日」。昨年2月に高血圧のため脳出血で倒れ、同5月に復帰した漫才コンビ「宮川大輔・花子」の宮川大輔さん(57歳)は花子さんとともに、高血圧の日キャンペーン「腕をまくろう、ニッポン!」で高血圧の怖さと脳卒中予防の重要さの啓発に当たっている。
08/5/13 上毛新聞記事より
僕は時々疑問に思うんだが、普段健康に気をつけていない人が病に倒れ、そこで初めて健康の大切さに気づいて生活習慣の改善を始めるパターンがあまりにも多すぎる。リスクを避けるため好きなものを食べずに我慢して人生の楽しみを減じるなんてナンセンス、と言っていた人が病気になったとたんそれをやめるなんてのは、要するに想像力や覚悟が足りなかったのだ。
人間の体は、常識に照らして考えれば明らかによろしくない生活習慣を続けても、そうすぐに病気になることはない。そこが健康問題の難しいところで、「今までこういう生活を続けてきたのに大丈夫だったんだから、これからも大丈夫だろう」という訳の分からない帰納的推論を言い訳に使って自分や家族をだます。
しかし、その考えがまるでダメなことは統計が十分すぎるほど示している。論理が示すのではない。健康問題の意思決定は論理的にやってはダメなのだ。例えば、手洗いやうがいが有効であることを論理的に説明することはできないし素早く実感することさえ難しい。だから私たちはそれを子供の頃からの習慣にしてしまっているわけだ。
大輔の食生活はあきらかに異常で、それは花子も分かっていたはずだ。しかし大輔は注意されても、大丈夫大丈夫と主張しただろう。あるいはテキトーな態度でかわしただろう。そこで花子が「根本的な生活改善をせよ」と追求できないのは、まさに健康問題の非論理性にある。つまり「今のままの生活を続けていたら間違いなく病気になる」ということを断言できないがために自信を持っていい返せない。自信をもてるのは大輔が病気になった後だ。これでいいのか?
手洗いを習慣にするのなら、常識的によくない生活習慣は機械的に排除する習慣をつけるべきだ。また、家族のよくない生活習慣についてお互いに言い合う場をつくることも有意義だろう。はっきりいって、自己責任の名のもとに完全な自由を個人に与えることは意味のあることと考えられない。健康についていえば、何を食べようと皆さんの自由ですよといっておきながら医療費削減の問題に苦しむのはおかしい、それくらいなら初めから完全な自由でなく生活習慣ガイドラインの強い推奨を行うべきだ。自由とセットになる概念は禁止だけではない。
現代の日本はどんな人格についても、そういう人もいるよねーで片付けてしまう傾向にある。だから差別意識は減ったのかもしれないが、かわりにぶつからなくなった。自分の生活習慣を、広く言えば考え方を、否定されない。しかし、立脚点を明らかにしさえすれば、どんな意見でも否定のしようはあるし肯定のしようもあるのだ。意見Aに対してポジションBから見れば反対意見Cが主張でき、ポジションCから見れば肯定意見Dが主張できる。
逆にいうと意見Aとは「ポジションBから見れば反対意見Cが主張でき、ポジションCから見れば肯定意見Dが主張できる」ような意見である。Aさんが意見Aを言い、もし二人から意見Cと意見Dが返ってきたなら、彼は自分の意見が3人の中でどういう位置関係にあるのか掴むことができる。「Aさんは意見Aを持ってる人なんだよ。そういう人もいるよねー」で済ませていたら、それは不可能だ。
健康に気をつけろというと、健康オタクに話が及ぶことがある。健康に気をつけて気をつけて、そればっかりに意識を振り向けて一生を終えるのはクォリティオブライフとしてどうなのかと。もちろん、健康的な生活をすることが「生まれつき」苦痛ならそれは問題だ。でもそんな人大勢いるだろうか?だいたいが、今の怠惰な生活を正当化するための言い訳にしか見えない。
私たちは基本的に、好みをコントロールするべきである。好きなものを我慢するくらいなら・・・というとき、不幸なのはその不健康なものを好きになってしまったことだ。でも、それを好きであることにどれくらい自分のアイデンティティがあるというんだろうか?よく考えてみるといい。ほんとに、それを大量に食べることがそんなに楽しいか?実は楽しいのは20%くらいで、他は全部惰性だったりしないか?
小さい子供ならともかく、大人なら自分の趣味についてたくさんの選択肢があるだろう。今の自分にどういう趣味をプラスすれば自然と健康的な生活になるか考え、好きな趣味を我慢しなくてもいいような人間になればいい。今好きなものは、たまたまの巡り合わせで醍醐味を知ったものだ。それはそれで素晴らしい。でも、良いものはたくさんとればなお良いというわけでは全くない。たまにしかとらないから密度が高くなり、感覚が鋭くなったりすることだってある。それで空いた時間は他にまわしてはどうか。
人間は年をとると抽象的な思考力は高まると言われている。筋力や計算力は衰えても、若いときに見えない景色が見える時がくる。時代も大きく変わって色々な新発見・技術が登場するだろう。そういう未来の自分に健康的な体を残そうと考えないのは僕にはよく分からない。もちろん、どんなに気をつけたって死ぬときは死ぬ。でも、小さいリスクも積もれば山となることを理解していれば、生活習慣の改善に対して投げやりになることはないはずだ。
08/5/13 上毛新聞記事より
僕は時々疑問に思うんだが、普段健康に気をつけていない人が病に倒れ、そこで初めて健康の大切さに気づいて生活習慣の改善を始めるパターンがあまりにも多すぎる。リスクを避けるため好きなものを食べずに我慢して人生の楽しみを減じるなんてナンセンス、と言っていた人が病気になったとたんそれをやめるなんてのは、要するに想像力や覚悟が足りなかったのだ。
人間の体は、常識に照らして考えれば明らかによろしくない生活習慣を続けても、そうすぐに病気になることはない。そこが健康問題の難しいところで、「今までこういう生活を続けてきたのに大丈夫だったんだから、これからも大丈夫だろう」という訳の分からない帰納的推論を言い訳に使って自分や家族をだます。
しかし、その考えがまるでダメなことは統計が十分すぎるほど示している。論理が示すのではない。健康問題の意思決定は論理的にやってはダメなのだ。例えば、手洗いやうがいが有効であることを論理的に説明することはできないし素早く実感することさえ難しい。だから私たちはそれを子供の頃からの習慣にしてしまっているわけだ。
大輔の食生活はあきらかに異常で、それは花子も分かっていたはずだ。しかし大輔は注意されても、大丈夫大丈夫と主張しただろう。あるいはテキトーな態度でかわしただろう。そこで花子が「根本的な生活改善をせよ」と追求できないのは、まさに健康問題の非論理性にある。つまり「今のままの生活を続けていたら間違いなく病気になる」ということを断言できないがために自信を持っていい返せない。自信をもてるのは大輔が病気になった後だ。これでいいのか?
手洗いを習慣にするのなら、常識的によくない生活習慣は機械的に排除する習慣をつけるべきだ。また、家族のよくない生活習慣についてお互いに言い合う場をつくることも有意義だろう。はっきりいって、自己責任の名のもとに完全な自由を個人に与えることは意味のあることと考えられない。健康についていえば、何を食べようと皆さんの自由ですよといっておきながら医療費削減の問題に苦しむのはおかしい、それくらいなら初めから完全な自由でなく生活習慣ガイドラインの強い推奨を行うべきだ。自由とセットになる概念は禁止だけではない。
現代の日本はどんな人格についても、そういう人もいるよねーで片付けてしまう傾向にある。だから差別意識は減ったのかもしれないが、かわりにぶつからなくなった。自分の生活習慣を、広く言えば考え方を、否定されない。しかし、立脚点を明らかにしさえすれば、どんな意見でも否定のしようはあるし肯定のしようもあるのだ。意見Aに対してポジションBから見れば反対意見Cが主張でき、ポジションCから見れば肯定意見Dが主張できる。
逆にいうと意見Aとは「ポジションBから見れば反対意見Cが主張でき、ポジションCから見れば肯定意見Dが主張できる」ような意見である。Aさんが意見Aを言い、もし二人から意見Cと意見Dが返ってきたなら、彼は自分の意見が3人の中でどういう位置関係にあるのか掴むことができる。「Aさんは意見Aを持ってる人なんだよ。そういう人もいるよねー」で済ませていたら、それは不可能だ。
健康に気をつけろというと、健康オタクに話が及ぶことがある。健康に気をつけて気をつけて、そればっかりに意識を振り向けて一生を終えるのはクォリティオブライフとしてどうなのかと。もちろん、健康的な生活をすることが「生まれつき」苦痛ならそれは問題だ。でもそんな人大勢いるだろうか?だいたいが、今の怠惰な生活を正当化するための言い訳にしか見えない。
私たちは基本的に、好みをコントロールするべきである。好きなものを我慢するくらいなら・・・というとき、不幸なのはその不健康なものを好きになってしまったことだ。でも、それを好きであることにどれくらい自分のアイデンティティがあるというんだろうか?よく考えてみるといい。ほんとに、それを大量に食べることがそんなに楽しいか?実は楽しいのは20%くらいで、他は全部惰性だったりしないか?
小さい子供ならともかく、大人なら自分の趣味についてたくさんの選択肢があるだろう。今の自分にどういう趣味をプラスすれば自然と健康的な生活になるか考え、好きな趣味を我慢しなくてもいいような人間になればいい。今好きなものは、たまたまの巡り合わせで醍醐味を知ったものだ。それはそれで素晴らしい。でも、良いものはたくさんとればなお良いというわけでは全くない。たまにしかとらないから密度が高くなり、感覚が鋭くなったりすることだってある。それで空いた時間は他にまわしてはどうか。
人間は年をとると抽象的な思考力は高まると言われている。筋力や計算力は衰えても、若いときに見えない景色が見える時がくる。時代も大きく変わって色々な新発見・技術が登場するだろう。そういう未来の自分に健康的な体を残そうと考えないのは僕にはよく分からない。もちろん、どんなに気をつけたって死ぬときは死ぬ。でも、小さいリスクも積もれば山となることを理解していれば、生活習慣の改善に対して投げやりになることはないはずだ。
登録:
投稿 (Atom)