今日の世界文学ワンダーランドはジョン・アップダイクの『クーデター』だった。著者はアフリカに、アフリカのイメージを代表するいかにもアフリカらしい架空の国を作り、そこからの視点でアメリカを風刺した。僕はかなり最近まで小説を軽視してきたので、少し前なら「国まで架空なんじゃ、読んでも何の得もない」と思っただろう。世の中には特定の小説について読書体験を共有し、そこに登場する人物や概念について議論をする人たちがいる。一体その議論は何だろう、何の意味があるのかと。
でも今では、逆に現実についての議論は何がそんなに(小説についての議論に比べて)偉いのかと疑うようになってきている。抽象的な言葉を用いた議論は本来仮想的なものだ。現実にある複数の現象・パターンに名前を設定し、それを文法というテンプレートに入れ込んで文章を作る。文章と別の文章を交換してコミュニケーションをし、何らかの合意に至る。なるほど役に立つ。しかし小説についての議論でも、同程度に合意に至るだろう。その合意は、一定範囲の文脈中において特定の命題が真であるかどうかに関する合意であり、その点では現実でも小説でも変わりがない。
ただしその特定の命題なるものが、現実について議論される際には、真であるか偽であるかが実在人物の生活に影響を与え、小説について議論される際には、真であっても偽であっても実はどうでもよいというあたりが相違点であろう。しかしながら、ここから直ちに現実についての議論のほうが現実的に重要だと言うことはできない。なぜなら、結論が実際の利害に直結しないということは議論の展開に自由度をもたらすからである。
実際の利害について興味がある私たちは、今までにない新しいものを作りだすことに興味を持っている。新しいものが誕生すると利害関係に影響を与えるからだ。ここで、もし議論が・・・一人の頭の中でのみなされる議論、つまり思考も含め・・・その展開に強い制限を加えられていたらどうだろう。新しいアイディアが自分にとって有益かどうかを考える際にはまずタネをたくさん用意しなければならないというのに、現実に正しいことからの演繹でしか選択肢を手繰り寄せられないのでは非常に効率が悪い。
小説中にでてくる言葉も現実に話される言葉も、それらを構成する単語に分解してしまえば区別がつかない。組み合わせ方に強い制限を課したものが現実的な言葉であって、逆に最低限の制限しか課さないものが小説的な言葉である。この自由度によって小説は多くのタネを生み、例えその多くが現実に役に立たないものだとしても、何%かが新種の有用なアイディアとして生き残る。
小説がいくら架空の話だといっても、人間は全く現実に即していない世界を考えることはできない。現実についての話がいくら現実的に感じても、人間は完璧に現実を頭の中に(あるいは紙の上に)再現することはできない。そういうわけで両者は互いに歩み寄って、私たちが考えているよりずっと近い距離に並んでいる。
JSの設定
2011年2月20日日曜日
『博士の愛した数式』レビュー
前途有望な数学博士が交通事故で脳に障害を受け、80分しか記憶が続かない体になってしまう。彼のところへ家政婦としてやってきた女性(以下、家政婦さん)とその息子・ルートとの心の交流。基本的にはそれだけの話だが、延々と続く3人のやりとりを見ているうちに、80分しか記憶がもたないのを自覚して毎日を過ごすのはどんな感じなんだろうと想像することになり、それが生み出す膨大な行間が単調なストーリーに厚みを加えている。
博士は80分しか記憶がもたないので、重要なことは全て紙にメモして自分の体に貼り付ける。家政婦さんが尋ねてくる時は博士にとって毎回初対面なので、「新しい家政婦さん」と書かれた似顔絵つきのメモを見て既に知り合いであることを認識する。彼の記憶は、交通事故に遭う直前における全記憶と、直近 80分の記憶、体に貼り付けられたメモや数学のことを記したノートなどの外部記憶によって構成されている。
彼の80分を1サイクルとし、新しいサイクルが始まった直後について考えてみよう。このとき彼は、新しいサイクルが始まったという事実を認識することはできない。彼は習慣的な動作によって「僕の記憶は80分しかもたない」と書かれたメモを見る。そして初めて、そのサイクル内で博士は自分の障害を認識する。
次に彼はニュースや新聞で現在の日時を確認したり、書いた覚えのない自分の筆跡がノートに記されているのを見て、メモの真実性を強化するだろう。僕の記憶は80分しかもたない。彼のサイクルは深い悲しみから始まり、しかもサイクルを経るごとに、忘れてしまった(と彼が認識する)記憶の量が増えていく。
サイクルの中程で、彼は家政婦さんとルートとの楽しい時を過ごす。彼は子供が大好きであり、また家政婦さんも、博士のところに通うたびに数学に対する興味をもって話を聞いてくれるようになる。しかし彼は今いるサイクルの開始時刻が分かっているであろうから、あと何分でこのサイクルが終了するかも分かっていると思われる。楽しければ楽しいほど恐怖も大きいだろう。
サイクルの終了間際、小説での描写による博士は非常に穏やかだが、もし彼の過ごした80分弱が非常に楽しい時間だったなら、次のサイクルの自分にメッセージを残そうとせずにいられるだろうか。しかし濃密な体験とそのアウトプットを両方満足に完了するには、80分は短すぎる時間である。つまり彼は、濃密な体験を望まないだろう。彼が体中にメモを貼り新しいメモをどんどん追加していくのは、記憶をつなごうとする欲求の現れであろうから、次の自分が瞬時に取り込める類の情報を残そうとすると思われる。それが数学である。
もし彼が記憶障害である事実を知らなければ幸せだろうかと、ふと考えてしまう。その事実を知るのを遅らせるのは簡単なことだ。「僕の記憶は 80分しかもたない」と書かれたメモを、家政婦さんがコッソリ取り外してしまえばよい。しかし彼の記憶は遠い昔の状態で止まっているから、現在日時を知ったりノートに覚えのないことが大量に書かれていたり、自分の手が年老いていると感じるだけで彼の苦しみは開始されるだろう。
現実から隔離された部屋に、博士が交通事故に会った翌日の日時を表示するデジタル時計があり、博士が書いたメモやノートは全てコッソリ捨ててしまう家政婦さんがいるとしよう。それでもなお、彼が年をとっているという致命的な問題は克服できない。もし彼がそんな部屋にいるとしたら、自分が年をとっている理由が全く分からず、しかもそのことを口先でごまかそうとする見知らぬ家政婦がいるのみなのである。
そんな状況に人は耐えられるだろうか?そう考えてみると、「僕の記憶は80分しかもたない」と書かれたメモは苦しみの元凶ではなく、どの道やってくる苦しみを最もマシにしてくれる鎮痛剤なのである。80分しか記憶がもたないことが分かれば、彼は現実から受け取る情報と自分の状態とのギャップをすぐに理解するだろう。数学者にとって、あるいは多くの人間にとって、分からないという事実から発生する不安ほど苦しいものはない。
この小説には博士が感じるであろう上述のような苦しみがほとんど描かれていない。彼の数学に対する純粋な思い入れや子供に対する優しさ、数列の美しさ、そういった綺麗なものだけで出来上がってしまっているのが残念に思える。著者が書きたかったのは数学のエレガンスと数学者の美学なのだろうが、記憶障害は小説を盛り上げるために気まぐれで振りかけられるほど手軽な調味料ではない。ある状況が現実世界で実現した場合に当然発生すると予想される現象は、類似した状況が実現している小説世界においても発生しなければならない。そうしないのであれば、紛らわしいから現実ベースの小説は書かないほうがいい。
博士は80分しか記憶がもたないので、重要なことは全て紙にメモして自分の体に貼り付ける。家政婦さんが尋ねてくる時は博士にとって毎回初対面なので、「新しい家政婦さん」と書かれた似顔絵つきのメモを見て既に知り合いであることを認識する。彼の記憶は、交通事故に遭う直前における全記憶と、直近 80分の記憶、体に貼り付けられたメモや数学のことを記したノートなどの外部記憶によって構成されている。
彼の80分を1サイクルとし、新しいサイクルが始まった直後について考えてみよう。このとき彼は、新しいサイクルが始まったという事実を認識することはできない。彼は習慣的な動作によって「僕の記憶は80分しかもたない」と書かれたメモを見る。そして初めて、そのサイクル内で博士は自分の障害を認識する。
次に彼はニュースや新聞で現在の日時を確認したり、書いた覚えのない自分の筆跡がノートに記されているのを見て、メモの真実性を強化するだろう。僕の記憶は80分しかもたない。彼のサイクルは深い悲しみから始まり、しかもサイクルを経るごとに、忘れてしまった(と彼が認識する)記憶の量が増えていく。
サイクルの中程で、彼は家政婦さんとルートとの楽しい時を過ごす。彼は子供が大好きであり、また家政婦さんも、博士のところに通うたびに数学に対する興味をもって話を聞いてくれるようになる。しかし彼は今いるサイクルの開始時刻が分かっているであろうから、あと何分でこのサイクルが終了するかも分かっていると思われる。楽しければ楽しいほど恐怖も大きいだろう。
サイクルの終了間際、小説での描写による博士は非常に穏やかだが、もし彼の過ごした80分弱が非常に楽しい時間だったなら、次のサイクルの自分にメッセージを残そうとせずにいられるだろうか。しかし濃密な体験とそのアウトプットを両方満足に完了するには、80分は短すぎる時間である。つまり彼は、濃密な体験を望まないだろう。彼が体中にメモを貼り新しいメモをどんどん追加していくのは、記憶をつなごうとする欲求の現れであろうから、次の自分が瞬時に取り込める類の情報を残そうとすると思われる。それが数学である。
もし彼が記憶障害である事実を知らなければ幸せだろうかと、ふと考えてしまう。その事実を知るのを遅らせるのは簡単なことだ。「僕の記憶は 80分しかもたない」と書かれたメモを、家政婦さんがコッソリ取り外してしまえばよい。しかし彼の記憶は遠い昔の状態で止まっているから、現在日時を知ったりノートに覚えのないことが大量に書かれていたり、自分の手が年老いていると感じるだけで彼の苦しみは開始されるだろう。
現実から隔離された部屋に、博士が交通事故に会った翌日の日時を表示するデジタル時計があり、博士が書いたメモやノートは全てコッソリ捨ててしまう家政婦さんがいるとしよう。それでもなお、彼が年をとっているという致命的な問題は克服できない。もし彼がそんな部屋にいるとしたら、自分が年をとっている理由が全く分からず、しかもそのことを口先でごまかそうとする見知らぬ家政婦がいるのみなのである。
そんな状況に人は耐えられるだろうか?そう考えてみると、「僕の記憶は80分しかもたない」と書かれたメモは苦しみの元凶ではなく、どの道やってくる苦しみを最もマシにしてくれる鎮痛剤なのである。80分しか記憶がもたないことが分かれば、彼は現実から受け取る情報と自分の状態とのギャップをすぐに理解するだろう。数学者にとって、あるいは多くの人間にとって、分からないという事実から発生する不安ほど苦しいものはない。
この小説には博士が感じるであろう上述のような苦しみがほとんど描かれていない。彼の数学に対する純粋な思い入れや子供に対する優しさ、数列の美しさ、そういった綺麗なものだけで出来上がってしまっているのが残念に思える。著者が書きたかったのは数学のエレガンスと数学者の美学なのだろうが、記憶障害は小説を盛り上げるために気まぐれで振りかけられるほど手軽な調味料ではない。ある状況が現実世界で実現した場合に当然発生すると予想される現象は、類似した状況が実現している小説世界においても発生しなければならない。そうしないのであれば、紛らわしいから現実ベースの小説は書かないほうがいい。
2011年2月12日土曜日
会社は従業員に対しても社会貢献をする責任がある
よその会社の話だけども、知人の上司が脳梗塞で倒れたらしい。
容易に想像できるが、血圧が高くて太っていたという。
その人の食生活はよく知らない。だから不摂生がたたったのか元々そういう体質だったのかも分からない。
とはいえ、もし自分に部下がいてその子が会社で変な時間におやつなどモリモリ食べているようなら、
多少は干渉しようかなぁと思う。会社での人間関係が少しも家族化してはいけないってことはないだろうから。
会社にとって、従業員が健康に気をつけてくれるのは非常に有り難いことのはずだ。
健康に気をつけることが可能な時間は、プライベートの時間だけではなく業務時間も含まれる。適切な気分転換、適切な姿勢と姿勢転換、エレベーターの代わりに歩く、残業を減らして夕食の時間が遅くなりすぎないようにする、等々。
でもその努力が有難がられることは、実際にはあまりない。それどころか、会社によっては残業が少ない人に対してもっと残業させようとしたり、気分転換や姿勢転換をサボりと見なすことさえあるだろう。
それが蔓延することによって会社中が気分転換だらけになったら困るというのは確かにある。でもそれなら、気分転換をどれくらい許すかによってチームの雰囲気や達成タスク量がどう変わるか、それぞれの管理職が見ればいい。
残業のほうは、それが個人の活力につながって達成タスク量が増える場合もあるだろうが(例えばプログラミングがノッてきて面白くて仕方ない場合とか)、人によっては2・3時間やる程度ではほぼ増えない場合もあるだろう。
例えばこういうことだ。持久走をするときランナーは、何km走るか決めてから走る。なるべく早く走ろうとする人Aもいるし、ゆっくり走る人Bもいる。この持久走を取り仕切る先生が、Aにだけ150%のノルマを課したとしよう。この意図は、AとBが走り終わる時刻を近づけることである。この時Aは2種類に分かれる。ノルマが増えてもなお全力で走ろうとする人A1と、自分の体力を考慮して初めからペースを落とすA2である。
※どの程度ペースを落とす必要があるかは個人の体力による。A2の場合、普段の1/2としておこう。
A1は(体力があれば)先生の意図通りBとほぼ同時刻にゴールする。A2はペースを半分に落とした結果、大幅に遅れてゴールする。というわけで、A2に追加ノルマを課した先生の意図は失敗している。そのうえ単位時間あたりの走破量も落ちている。
一日の初めに「今日は2・3時間残業しよう」と決めることは、持久走の追加ノルマに相当する。
そう決めた人がA2タイプであれば、単位時間あたりの走破量すなわち効率が落ちることにより、タスク達成量は何時間か残業したあとにやっと(残業なしの日より)多くなり始める。仮にその時刻が21時だとして、22時まで働くと(落ちた効率)×1時間分のタスクを余分にこなせることになる。
一方、夕食の時間が遅くなったり自由時間が少なくなったりすることで健康とモチベーションの両面で悪影響が予想される。さて、余分にこなせるようになったタスク量はこの悪影響に見合うか?ましてや、長い会社生活の中で150%ノルマを続けていった時、効率の低下幅がずっと同じで済む保証はない。
ストレスが過食につながりやすい人だっているのだ。その因果関係を疑ってもみないで、ストレスを低減できる働き方を部下に提案してあげもせず、ある日病気になったら運が悪かったね、ひどい時には自業自得だなどと言う、僕は幸いそういう上司は見たことはないが、もしいるとしたらいかがなものかと思う。
相談にのるのはまだ良いほうだが、グチを聞いているだけなら無能の範疇を出ない。忙しいのは分かるので一人一人に丁寧に働きかけろとは言わないが、自分で健康やモチベーション管理をするよう奨励し、すでに実践している人は評価するべきだ。自分のチームの業績だけを気にするあまりつい業務偏重な命令をしてしまったとする。部下からそれを指摘されたら、ハッと気づいて訂正する。指摘しやすい空気を作る。管理職自ら実践する。こういった文化に理解のない、さらに上の偉い人から部下を守る。どれもそんなに面倒くさいことじゃない。
追記1:
A1がA2より評価されるのは仕方のないところ。しかし上司はA2を認めなければならない。
また、A1は150%のノルマなら全力で走れるが、これが200%とか300%とかどんどん増えても全力で走ろうとするなら危険である。自分の体力を考慮しない未熟さを上司が黙認すると、最悪の場合は過労死ということになる。
追記2:
ある意味、残業は会議と似たところがある。残業をたくさんしていれば、自分は精一杯のことをしていると思って安心するからだ。しかし特に社外とのやりとりが多い業務形態の場合、営業時間内の応答頻度と質を高めることが重要になる(正しい問題の立て方、正しい内容の応答をすることによって、プロジェクト完了までに必要な総コミュニケーション量が減らせる)。
十分な対話をこなさないまま営業時間外に突入したら、作業系の業務はどうにかなっても外部コミュニケーション系の業務は置いてきぼりだ。そして往々にして、プロジェクトが遅れる原因はコミュニケーションのまずさにある。残業には残業代というインセンティブがあるが、対話を円滑に進めることについてはそれほど強力なものがない。
だからこそせめて管理職は、下っ端の人間と一緒になって残業神話を崇拝していてはいけないと考える。
容易に想像できるが、血圧が高くて太っていたという。
その人の食生活はよく知らない。だから不摂生がたたったのか元々そういう体質だったのかも分からない。
とはいえ、もし自分に部下がいてその子が会社で変な時間におやつなどモリモリ食べているようなら、
多少は干渉しようかなぁと思う。会社での人間関係が少しも家族化してはいけないってことはないだろうから。
会社にとって、従業員が健康に気をつけてくれるのは非常に有り難いことのはずだ。
健康に気をつけることが可能な時間は、プライベートの時間だけではなく業務時間も含まれる。適切な気分転換、適切な姿勢と姿勢転換、エレベーターの代わりに歩く、残業を減らして夕食の時間が遅くなりすぎないようにする、等々。
でもその努力が有難がられることは、実際にはあまりない。それどころか、会社によっては残業が少ない人に対してもっと残業させようとしたり、気分転換や姿勢転換をサボりと見なすことさえあるだろう。
それが蔓延することによって会社中が気分転換だらけになったら困るというのは確かにある。でもそれなら、気分転換をどれくらい許すかによってチームの雰囲気や達成タスク量がどう変わるか、それぞれの管理職が見ればいい。
残業のほうは、それが個人の活力につながって達成タスク量が増える場合もあるだろうが(例えばプログラミングがノッてきて面白くて仕方ない場合とか)、人によっては2・3時間やる程度ではほぼ増えない場合もあるだろう。
例えばこういうことだ。持久走をするときランナーは、何km走るか決めてから走る。なるべく早く走ろうとする人Aもいるし、ゆっくり走る人Bもいる。この持久走を取り仕切る先生が、Aにだけ150%のノルマを課したとしよう。この意図は、AとBが走り終わる時刻を近づけることである。この時Aは2種類に分かれる。ノルマが増えてもなお全力で走ろうとする人A1と、自分の体力を考慮して初めからペースを落とすA2である。
※どの程度ペースを落とす必要があるかは個人の体力による。A2の場合、普段の1/2としておこう。
A1は(体力があれば)先生の意図通りBとほぼ同時刻にゴールする。A2はペースを半分に落とした結果、大幅に遅れてゴールする。というわけで、A2に追加ノルマを課した先生の意図は失敗している。そのうえ単位時間あたりの走破量も落ちている。
一日の初めに「今日は2・3時間残業しよう」と決めることは、持久走の追加ノルマに相当する。
そう決めた人がA2タイプであれば、単位時間あたりの走破量すなわち効率が落ちることにより、タスク達成量は何時間か残業したあとにやっと(残業なしの日より)多くなり始める。仮にその時刻が21時だとして、22時まで働くと(落ちた効率)×1時間分のタスクを余分にこなせることになる。
一方、夕食の時間が遅くなったり自由時間が少なくなったりすることで健康とモチベーションの両面で悪影響が予想される。さて、余分にこなせるようになったタスク量はこの悪影響に見合うか?ましてや、長い会社生活の中で150%ノルマを続けていった時、効率の低下幅がずっと同じで済む保証はない。
ストレスが過食につながりやすい人だっているのだ。その因果関係を疑ってもみないで、ストレスを低減できる働き方を部下に提案してあげもせず、ある日病気になったら運が悪かったね、ひどい時には自業自得だなどと言う、僕は幸いそういう上司は見たことはないが、もしいるとしたらいかがなものかと思う。
相談にのるのはまだ良いほうだが、グチを聞いているだけなら無能の範疇を出ない。忙しいのは分かるので一人一人に丁寧に働きかけろとは言わないが、自分で健康やモチベーション管理をするよう奨励し、すでに実践している人は評価するべきだ。自分のチームの業績だけを気にするあまりつい業務偏重な命令をしてしまったとする。部下からそれを指摘されたら、ハッと気づいて訂正する。指摘しやすい空気を作る。管理職自ら実践する。こういった文化に理解のない、さらに上の偉い人から部下を守る。どれもそんなに面倒くさいことじゃない。
追記1:
A1がA2より評価されるのは仕方のないところ。しかし上司はA2を認めなければならない。
また、A1は150%のノルマなら全力で走れるが、これが200%とか300%とかどんどん増えても全力で走ろうとするなら危険である。自分の体力を考慮しない未熟さを上司が黙認すると、最悪の場合は過労死ということになる。
追記2:
ある意味、残業は会議と似たところがある。残業をたくさんしていれば、自分は精一杯のことをしていると思って安心するからだ。しかし特に社外とのやりとりが多い業務形態の場合、営業時間内の応答頻度と質を高めることが重要になる(正しい問題の立て方、正しい内容の応答をすることによって、プロジェクト完了までに必要な総コミュニケーション量が減らせる)。
十分な対話をこなさないまま営業時間外に突入したら、作業系の業務はどうにかなっても外部コミュニケーション系の業務は置いてきぼりだ。そして往々にして、プロジェクトが遅れる原因はコミュニケーションのまずさにある。残業には残業代というインセンティブがあるが、対話を円滑に進めることについてはそれほど強力なものがない。
だからこそせめて管理職は、下っ端の人間と一緒になって残業神話を崇拝していてはいけないと考える。
登録:
投稿 (Atom)