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2013年1月21日月曜日

社会的事実って本当に存在するのか

中山康雄著『科学哲学入門』を読んで思ったことを書いてみようと思う。
それは「社会的事実って本当に存在するのか」ということであるが、その前に簡単な例として「あなたの前にテレビは存在するのか」と問うてみよう。テレビっぽい像があなたの目の前に見えていて、あなたはそれがテレビであると確信しているものとする。また「存在する」は、「外部信号と認識パターンが一致している」という意味だとする。この場合テレビから発せられた光が外部信号であり、それがテレビという認識パターンと一致すると解釈されたわけである。

すると、あなたの前にテレビは存在していることになる。実際はそれが幻覚だったり、それはテレビではなくてパソコンのディスプレイだったりする可能性もあるのだが、ここでは「〜は存在するのか?」という問いは「それを問う、疑い深い人を納得させる」ためにあると位置づけているので、本人が存在を信じれば十分である。

次に「自由の女神は存在するのか」と問うてみよう。アメリカは日本から遠いので、簡単に行くことができない。あなたが自由の女神っぽい像を直接確認せずにそれが存在すると言うためには、「存在する」の定義を拡張しなくてはならない。つまり、「外部信号と認識パターンが一致している」状態が簡単に実現できないので、それが可能な人を信じることが必要となる。

直接的もしくは間接的に「自由の女神が存在する」と言っている人は多数いるので、もし自由の女神が存在しないならば彼らは嘘つき呼ばわりされ「本当は自由の女神は存在しない」という主張が声高になされるはずである。しかし実際はなされていない。このようなことから、あなたの代わりに自由の女神の存在を主張する人を信じる根拠が生まれる。拡張された定義は次のようなものである。「外部信号と認識パターンが一致している、信頼できる人がいる」。注意点として、信頼は妄信ではなく確かな根拠に基づく。

ではいよいよ「社会的事実」なるものを考える。『科学哲学入門』では例として、「およげ!たいやきくん」というタイトルの歌が流行したという事実をあげている。この手の事実の多くは、社会的事実と呼ぶのが相応しくないというのが本稿の主張である。まず、言葉の意味を確認しておく。テレビと自由の女神の例では、物理的事実の存在について定義した。社会的事実は(モノがあるという)物理的事実と違って、社会的に受け入れられている事実(などの、共有信念に依存する事実)を指す。

テレビが誰かの目の前にあることは、社会は関心を示さない。日本で歌が流行することについては日本文化の歴史に関わるので、関心を示す人が少なからずいる。そう考えるとたいやきくんの流行は物理的というより社会的と表現するのが適切であり、新聞などのデータを参照すると確かにそれは事実であるようだ。この事実の存在についても、先の定義が使える。

再掲:「外部信号と認識パターンが一致している、信頼できる人がいる」
この場合、外部信号とは「たいやきくんは流行した」という主張(発話)がなされる時の音声信号と考えればよい。しかしながら、共有信念に依存する事実が全てたいやきくんのように記録に残るわけではなく、むしろ少人数の集団の中で暗黙に了解されているようなケースのほうが圧倒的に多い。

中山の分類によれば事実は「物理的事実」「社会的事実」「内省的事実」の3つしかなく、また「集団の中で暗黙に了解される事実」は完全に(『科学哲学入門』に登場する)社会的事実の定義に当てはまる。しかしこれから見ていくように、暗黙的な社会的事実の存在は極めて認定が難しい。

例えば企業内において、何が許され何が許されない行為かを決めるのに明文化されたルールを参照することは稀である。部署によってメンバーが異なるので、ある部署で許されることが別の部署で許されなかったりする。暗黙的なものは多くの場合ルールの体をなしておらず、許す立場の人Aは許される立場の人Bの行為Xに対して何らか反応するだけである。その結果はAの内部状態(気分や考え方、Bに対する印象など)とXの内容と外部環境(タイミングやビジネスの状況)に依存する。

多くの場合、実際に存在するのは個々の「反応」である。反応が繰り返され分析可能な量に達したとき初めて、何らかの傾向があるという主張が行われ、(そんな事実はないと反撃される余地はあるものの)とりあえず事実化する。事実化すれば社会的事実とも呼べようが、例えば使い古された社会的事実は未来の世代にとって共有信念になっていない。

それでも、たいやきくんが流行した事実は存在するかと問われたら、未来の世代は検索エンジンを駆使するなどして「YES」と答えるだろう。つまり中山の、物理的でも内省的でもない事実は共有信念に依存するという主張はこのことと整合しない。もしくは、問われて答えるという反応まで共有信念の定義に含めるのであればネーミングが悪いし広義すぎる。

社会的事実という概念を導入することは、確かな存在であるところの「反応」に注目することを怠らせてしまう危険を伴う。先に述べたように、社会的事実はその認定まで「多量の反応を発生させる〜データ化して分析する〜傾向を主張する〜その傾向はないという反撃を退ける」という長い長い道のりがある。物理的事実や内省的事実と比べて、存在確認が面倒すぎるし不確かすぎる(明文化された社会的事実であるところの制度的事実は別として)。

そうしたものは事実というカテゴリーに属さないと言えば、事実の3分類は守られるだろう。しかし、個別の反応が物理的事実であるとしたら、それが大量に集まって社会的事実になるまでのプロセスにおいて、どの時点で転換が起きたのだろうか。もし転換など起きないのだとしたら、事実は2分類で十分となる。少なくとも、常に3分類を用いるのが有効とは思えない。

特定の社会的事実についても本稿では、「〜は存在するのか?」という問いは「それを問う、疑い深い人を納得させる」ためにあると位置づけている。共有信念などというものがなければ社会的事実は成立しないのだとしたら、私たちは彼を納得させるのに想像を絶する苦労をするだろう。しかし「世論調査のデータについて特定の傾向を指摘している人がいる」などという言明については議論を運びやすい。

共有信念的なものは、あるように見えるケースもあるだろう。しかし、それがなくても私たちは事実を語る。共有信念が出来上がっていることよりも、そうでないことのほうが議論になりやすく現実的に解決すべき問題はそちらのほうに多くある。科学哲学は楽をしないで、現実に踏み込むべきだろう。



2012年12月30日日曜日

who knows what が英語のわけ

http://welself.blogspot.jp/2012/11/blog-post_26.html
ここにも書評があるが、『世界の経営学者はいま何を考えているのか』を立ち読みした。
個人的には、「組織の記憶力を高めるためにはWhatよりもWho knows whatが大事」というトランザクティブメモリーの話や、イノベーションを起こすための「知の探索と知の進化の両利きの経営」といったトピックは、いまの会社の経営にも参考になり、とても面白かった。
とブログに書いてあるが、トランザクティブメモリーをもうちょっと詳しく説明すると{知識そのものよりも「誰が何を知っているか」に関する知識が重要}ということである。自分に各専門分野の知識が足りなくても、ある問題を聞いた時に誰だったらそれを解決できそうか分かるならば困ることはない。

しかし本稿で注目するポイントは経営論ではなく、どうして日本語で書かれた本にWho knows what という英語表現が出てくるかである。簡単に言えば、前述の説明に登場した「誰が何を知っているか」という文章を構成している「」を省略する役割を持っている。※1
つまり次の2つの文章は同じ意味である。

A:<知識そのものよりも「誰が何を知っているか」に関する知識が重要>
B:<知識そのものよりもWho knows what に関する知識が重要>

「」を使った文章をAタイプ、英語を使った文章をBタイプと呼ぶことにしよう。
Bタイプの利点は、日本語の文章全体をパッと見た時に英語部分が明らかに異物であるために、どこからどこまでが異物なのか範囲が明確なことである。Aタイプでは「」の中身も日本語なので、カッコのどちらか一方を見落とせばその中身は簡単に外側の日本語と混ざり合ってしまう。上記ではカッコの中身が短いからまだいいが、長いとカッコの始まりと終わりを見つけるだけで大変な作業である。

同様の例は他にもある。例えば物理の公式。以下はブラッグの法則と言われるもの(説明のために少し形を変えてある)。
sinθ=nλ
注目すべきは、ギリシャ文字が含まれていることである。θはシータ、λはラムダと読む。私たち日本人にとってアルファベットですら異物なのに、さらに異物のギリシャ文字を使うのは何故か。そのメリットの1つは、やはり「周囲と混ざらない」ということである(単純に、使える文字が増えるというのも勿論ある)。

上記の式を敢えて日本語で読むと次のようになる。
”シータのサインはエヌとラムダの掛け算に等しい”
もしギリシャ文字を使っていなければどうなるか、例を見よう。
sing=no
θを”g”に、λを”o”に変えただけなので、当然次の意味になるべきである。
”ジーのサインはエヌとオーの掛け算に等しい”

しかし”sing=no”を見てこの読み方ができる人はいないだろう。
どう見ても”歌う=ダメ”なのだから。gやoは完璧に周囲と混ざる例であったが、式全体をパッと見た時に全ての文字が同一文字種(この場合アルファベット)で出来ていれば、人間の目はまずそれを何らかの単語として見るのである。gやo以外の、混ざるか混ざらないか微妙なアルファベットを使った場合はギリシャ文字と同様の読み方ができるかもしれないが、それには「何らかの単語として見るのが失敗する」という不快な出来事を乗り越える必要がある。

この無駄がなくなるため、意味の塊を異物で表記するメリットがある。閾値のことをThresholdと言い換えても意味はほとんど同じであるが、それでも日本語の中に異物を登場させることにより「そこにキーワードがある」という事実を強調する役割はある。ただ逆に言えば、文脈においてそれがキーワードではないのに恰好つけるために異物を混ぜれば(文章全体の見通しを損なう)ノイズにしかならないということである。従って、無条件の恰好つけと無条件の異物嫌悪はどちらも避けるべきである。

※1
Who knows what は、それがキーワードだけで出来ているのも利点である。「誰が何を知っているか」と書いた場合、意味の大部分を成すのは「誰」「何」「知」の漢字3文字であり、残りのひらがな7文字は余分である(※2)。余分な文字の数が(10文字から成る)文章全体の7割を占める点でこの文章は全体の見通しが悪く、そこへ行くとWho knows what は優れている。


※2
ひらがな7文字が余分というのは、日本語が英語より劣っていることを意味しない。小回りが利く言語は時に表現が冗長だということである。Who knows what という3ワード文は、それ単体で「誰が何を知っているか」より細かいニュアンスを表現できる可能性は低いだろう。しかし「Who knows what の詳しい説明」=γなどと定義して、それ以降の文ではγを使えば「誰が何を知っているか」と書く以上に表現力は高い(かつ、『世界の経営学者はいま何を考えているのか』全体を通してγが頻出するのであれば、筆者にとって書くのがだいぶ楽になり読者にとっても見通しが良い)。

そう考えるとWho knows what を使うことは、γを使うよりワード数が少し増えるものの、パッと見て定義を思い出しやすいという利点を持つ。そういう戦略なのだろうと考えることができる。




2012年12月26日水曜日

言葉はすべて実用世界の住人である

感謝、敬意、挨拶など、世間一般で大切と言われているのに、それがどうして大切なのか説明するのが難しい言葉がある。説明が難しいとはどういうことなのか示すために、説明が簡単な例を取り上げよう。スプーンの使い方、お金の概念、歴史、我慢すること。これらが大切な理由を説明することは簡単だろう。

説明が難しい概念をD(difficult)群、簡単な概念をE(easy)群と呼ぼう。説明が難しいのに子供の頃から身につける必要があるD群は、それを習慣化させることによって親から子に伝承されるのが普通である。年上の人は敬いなさい、いいことをされたら感謝しなさい、人に会ったら挨拶しなさいという具合に、なぜそれをする必要があるのか説明されない。

これにはいくつか利点がある。第一にD群の内容は難しいので、うまく説明できない可能性が高い。説明しなければ、少なくとも間違った説明を相手に教えてしまうリスクがない。第二に、うまく説明できたとしても、D群の正確な説明文は難解なので相手に相応の読解能力がないと理解してもらえない。第三に、仮に難解な説明文を相手が理解してくれたとしても、習慣化されていない行動はいざという時に発動しない恐れがある。

しかし本稿では、中学生にも高校生にもD群の説明が与えられないことに対する欠点を指摘する。僕自身、日常世界の全概念がD群とE群に分割されていることに気持ちの悪さを覚え続けてきたからである。もう少し正確にいえば、D群があたかも説明不可能なもののように扱われているのが気持ち悪く、その気持ち悪さを周りの人は感じていないように見えるのが僕を不安にさせたということだ。

今考えてみれば、当然D群は実用世界の言葉として説明可能である。
例えば「東京駅」と比べて「こんにちは」は文言としてあまり意味がないように感じられるが、実際使ってみれば意味があるわけである。共通の、TPOに即した話題がすぐには思い浮かばない程度の相手に対して、変に思われない発声ができるとしたら挨拶以外にない。声を聞かせ、返事を聞くことによって生物学的な情報を交換し、その情報を土台にして次の発言に必要なステップを小さくできる。

上記は「挨拶」の説明文である。「挨拶したほうが気分いいじゃん」という簡明な文によって挨拶の大切さを説明することもできるが、気分がよいのは経験的に挨拶後の気分の良さを知っている常識人にとってだけであって、気分がよい経験をしたことがない(もしくは経験したことがあっても、”こんにちは”の「文言としての意味のなさ」に対する失望感が、気分のよさに勝ってしまう)人にとってその簡明な説明は受け入れがたい。

「今は何で大切なのかよく分からないけど、大きくなれば分かるだろう」とスルーできる子供は常識的に見て確かに賢い。しかし、そうでない子供もたくさんいる。難解な説明文がもし理解できなくても、それが参照可能なところにあることを知るだけで安心するはずである。なぜなら、大切とされていることに理由がなくて周囲の大人も分かっていないのなら、自分が大きくなっても分かると思えるはずがないからである。

また、子供の悩みを緩和するという側面の他にも、D群の言葉を実用世界のものとして説明することは意味がある。つまり、実用上の意味が分からないまま大人になり昔の習慣を軽視するようになると、その概念は簡単に元に戻ってはくれないのである。例えば日頃の感謝を忘れることは大人の世界では日常茶飯事であるが、これは”感謝”の説明文があれば起こりにくいと思われる。

感謝とは、{「相手が何のために何をしたか」を自分が認識している、という事実 }を相手に伝える行為の一種である。自分が何を認識しているかを伝えることはコミュニケーション上重要である。その情報があれば相手は自分のことをより理解して行動してくれるようになるのだから。

感謝の意味はもちろん、そのように単純なものだけではない。
例えば、そもそも相手に関する認識を伝えるためには「相手」という1つの外的世界を理解する必要があり、感謝する相手や対象が増えることは「自分が理解している外的世界が増える」ことを意味する。それが内的世界の理解につながることもあるだろう。

このように色々な物事に対する理解が深まることは確かに良いことではあるが、いま主張したいことは「実用的な意味のない言葉はない」ということと「言葉の意味は、その実用的な側面から順番に教えよ」ということである。「言葉はすべて実用世界の住人である」ことを明確にすることによって多数の子供は安心し、多数の大人は大事なものを失わずに非実用的な価値を積み重ねていくことができるだろう。