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2010年7月4日日曜日

理由という言葉の少し変わった使い方

Twitterでmic314が言っていたことから連想した事柄を少し。
※mic314はwiiの428というゲームにでてくるタマというキャラクターによく似ているなぁ・・・と密かに思っている人。べつに親しくはない。

mic314とspinel3の会話を引用:
m: "女性は月刊、男性は週刊、って、なんでだろう、という議論中。…しかし、結論出ず。なんでなんだろーっ。"
s: "それってどういう議論ですか?"
m: "雑誌や漫画など、女性誌は月刊が多く、男性誌は週刊が多い・・・という実感があり、なぜ違うんだろう…という話をしてました!"

面白いと思うのは実はこの議論の内容そのものではなく、「なんでだろう」と理由を考えているところだ。理由という言葉は普通、ある人がなにか行動をした時の意図であったり、結果に対する原因という意味で使われる。上で問題になっているのは後者のほうなのだが、若い頃に考えていたことの後遺症か何か知らないが、理由というとどうしても意図的なニュアンスを感じてしまう。

むかし考えていたことというのは、生物の進化に関する話。
例えば世界には変わった姿形をした生物がいるが、彼らはどうしてそういう形になったんだろう?
「アリクイの鼻が長いのは何で?」と聞かれたら「アリを食べるのに便利だから」と説明する人は結構いると思うが、アリクイ自身がそう思って鼻を伸ばしたわけではない。「アリを食べるのに便利なように進化したから」と説明しても、「何で他のエサではなく"アリ"がターゲットなのか?」と聞き返されたとき困るだろう。

アリクイの祖先がいて、突然変異によって何種類かの子孫に分岐したとしよう。
その1つがアリクイで、理由もなく鼻が長くて先が細かった。それはアリを食べるのに適していて
アリは栄養価が高くてどこにでもたくさんいたのでアリクイは生き残ることができた。
仮にそうだとすると、アリクイの鼻が長い理由は、単に彼らの生態圏で生き残ることができる姿形のレパートリーに「鼻が長い、アリクイのような姿形」が含まれていただけということになる。

さて、上の理由と、「アリを食べるのに便利だから」という説明はどれくらい違うだろうか?
一見して、アリクイのような姿形が生き残りやすいために生き残ったというのなら、その姿形が生き残りやすかった理由はアリを食べやすいことなのだから、「アリを食べるのに便利だから」と言っても問題なさそうに思える。
※そしてこれが自分なりの結論なのだが、反論も思い浮かぶ。以下、それに対する自問自答。

でも、質問は「アリクイの鼻が長いのは何で?」だった。この意味が「いま目の前にいるアリクイの鼻が長いのは何で?」であれば、その答えは「そのような遺伝情報をもって生まれてきて、なおかつ無事に育ったから」となり、「何でそんな風に進化したの?」であれば「たまたま」というしかない。
なぜなら、その姿形が生き残りやすいかどうかは長い時間テストしてみなければ分からないからだ。

先祖からアリクイが分岐した時点で既にその鼻は長い。この理由と、現代のこの日にアリクイの鼻が長い理由は同じであると仮定しよう。すると、前者の時点ではその姿形が生き残りやすいかどうかなんて分からないのだから、アリクイの鼻が長い理由は「アリを食べるのに便利だから」ではありえない。分岐がランダムな突然変異で起こるのであれば、その時点でアリクイがアリクイの姿形をしているのは「たまたま」だ。よって後者の時点でも理由は同様である。

というわけで「自分なりの結論」が否定されてしまった。しかし上で仮定したことは生産的な議論を生まないので棄却するべきと思う。前者の時点でアリクイの鼻が長い理由はたまたまであるというのは確かにその通りだが、後者の時点でも同じことしか言えないとすれば、それは質問を好意的に解釈する気も、アリクイが長い時間にわたって生存してきた事実を考察の材料に加える気もないということだ。

そこで質問の解釈を変えてみよう。「アリクイの鼻が長いのは何で?」→「アリクイの長期間に渡る生存に役立ってきた重要な環境要因がいくつか考えられるとして、特にその中で、鼻が長いことに関連するものは何か?」とする。こうすれば答えは明確に決まる。つまり、「長い鼻で食べやすいアリという生物がまわりにウヨウヨしていた」ということである。

ここでもう一度注意を。上の答えは「アリクイの鼻が長い理由」ではなく、「鼻が長いアリクイが生き残ってこれた理由」である。実際、アリクイのまわりに大きいネズミしかいなかったら彼らは絶滅していただろうし、長期間に渡ってアリが彼らのまわりに居続けることなど全く保証されていなかった。アリを食べるために進化したのではなく、進化したらアリを食べざるを得なかったのだ。

私たちは、アリクイの鼻が長い理由を聞かれたらまず解釈変換を行って「長い鼻で食べやすいアリという生物がまわりにウヨウヨしていたこと」という回答を導き、さらに再変換を行って「アリを食べるのに便利だから」と答えている。一般に、質問者はなるべく解釈変換が少なくて済む発話をしなければならないが、回答者もある程度は解釈変換の努力をする必要がある。逆に言えば、多くの解釈変換が必要な発話を許すのなら、テキトーな回答も許されなければ不公平である。

※回答に変換をかけているのだから、テキトーな回答をするほうが面倒くさいのではないかというツッコミがあるかもしれないが、それは違う。テキトーじゃない回答をするのには、まず質問の解釈をどのように変えたのかから説明する必要があるからだ。

2010年6月28日月曜日

3月のライオン

実家に帰ったら3月のライオンがあったので嬉々として読んだ。
これだけでも帰った甲斐があったというもの(自分で買って読むのとはワケが違います)

んー、将棋の漫画とは聞いてたけど基本は少女漫画なんでしょ?と思ってたが、これはちゃんとした将棋の漫画ですな。
むしろプロ棋士同士の心の動きとか生活感をこれくらい現実的に描いた漫画って今までなかった気がする。
それに加えて、プライベートにおいて複雑な事情をかかえた登場人物が多いこと、彼らの偶奇的な出会いによって始まっていく交流、香子と主人公のやや背徳的な関係、二階堂との(一方的)ライバル関係、ヒナちゃんと高橋くんとの普通に少女漫画的な恋愛模様などが自然に展開されていて楽しみが多い。

二階堂は将棋関係者なら誰でも、先崎の解説を読む前に故・村山聖9段がモデルであると分かる。
実際の村山はもっと人間的な葛藤に溢れていて終盤の強さは二階堂レベルじゃなく、
体の具合だってもっと悪かったはずだけど、それでも二階堂は村山を取り入れたことで魅力的なキャラクラーになっている。

村山は自分の病気が重いことを知っていて、なおかつ名人になるという目標を持っていたので、いい意味で将棋の上達に関して「のんびりする」ことを知らなかった。他のプロ棋士が将棋に対して怠慢になっているのを見ると許せなかったのは、怠慢さを自分に投影した場合に「こんなことじゃいかん」と思うのもあったかもしれないし、自分には時間がないのにおまえらにはあるという嫉妬もあったかもしれない。

いずれにしても二階堂が主人公の将棋を大盤解説していて「ほんとうに勝ちたいなら粘れ!もっと自分の将棋を大切にしてくれ」と言った時、もし村山のエピソードを知っている人が単行本の2巻を見たら、他人事を他人事と思わない村山の姿が二階堂にダブって見えただろう。それでも二階堂は決して可哀想キャラではなく、気遣いができてお金持ちの御曹司で絵を書くのがうまく三姉妹の末っ子にはトトロ扱いされている。

今までの将棋漫画だと、勝負事としての破壊性ばかりを極端にピックアップ・拡大していたような気がする。でも、例えばもともと温かい日常風景である料理の世界をミスター味っ子のようにピックアップすることはギャグになりえても、一部の人しか知らない世界をどう加工してみせたところで、一般の読者はそれが「加工されたものである」とすら気付けない。

とはいえ簡潔かつ正確に伝えられない特殊な事情はもちろんあるので、そういうのを可愛さで覆い隠しながら徐々に慣れさせようとしているところが少女漫画作家の面目躍如といった感じで感心する。特にプロ棋士にとって、3月のライオンは有り難い作品なんじゃないかと思う。

2010年6月21日月曜日

『ルポ 最底辺 - 不安定就労と野宿 -』を読んで(1)

ちくま新書、生田武志著、2007/8/10 発行。

「おわりに」より:
藤本さんが亡くなって1週間たち、釜ヶ崎の運動団体によって橋の上で最後の追悼行事が行われた。
その最後に献花が用意され、通りかかった人などたくさんの人達が藤本さんのために花を投げていった。
ただ、ぼくは川に投げられるたくさんの花を見ながら、「死んでから花を投げても遅いんだよなぁ」と思わずにはいられなかった。
〜中略〜
しかし、だとすればその自分が、次々と殺されていく人たちがいる中で何もしないでいるのは何故なのか。
事実、野宿者襲撃事件は次々と起こり続けている。そして、若者の襲撃で殺されなくても、
日雇い労働者や野宿者は仕事がないというだけの理由で現実に次々と死んでいる。
しかもそれは社会的に黙殺され、放置され続けている。そのたびに、明日、あさってとまた橋から路上から公園から花を投げるのか。

大阪市西成区にある日雇い労働者の街「釜ヶ崎」は、1986年(著者が21歳で初めて釜ヶ崎を訪れた当時)から2007年現在にいたるまで、2万5千人の日雇い労働者と1万人以上の住民がすむ「日本最高の人口密度の街」である。かつて日本の4大寄せ場と言われた地域があったが、現在も寄せ場として機能しているのは釜ヶ崎だけである。

2007年4月6日に発表された厚生労働省の「ホームレスの実態に関する全国調査報告書」によると日本のホームレス数は1万8564人、2003年より26.6%減少した。厚生労働省は「景気の回復により・・・全体の人数が減ったと見られる」とコメントしたが、著者によれば、野宿の減少は主に「高齢化」による生活保護の増加によって起こされていた。また行政による公園からの追い出しが進んだことや、ネットカフェ難民等の増加によって調査に反映されにくい生活形態になってきているという。

『最底辺』を読んで印象に残ることは3つあり、1つは不安定就労とホームレスという社会現象自体の問題、1つは2極化していると言われる社会の中でどちらに転ぶか決定される気まぐれなメカニズムの問題、1つは先の抜粋にもあるように、「だとすればその自分が、次々と殺されていく人たちがいる中で何もしないでいるのは何故なのか」という問題。

1つ目はまさに『最底辺』が扱っている内容そのものなので特には触れない。とりあえずこのエントリーでは2つ目について書いてみる。この問題は第6章のイス取りゲームの比喩でも述べられているように、野宿者自業自得論に関するものである。これは努力が足りなかったから失業して野宿になったんだとか正社員になれなかったんだという主張だ。

この主張が正しくないのは当たり前だが、つい取り憑かれてしまいがちな考えとも言える。言い換えてみればよく分かる。世の中には声を大にして野宿者自業自得論を唱える人はそんなにいないが、一般に成功者と言われる人の中には「自分は努力したから成功したんだ」という人は結構いる。自分を褒めるか他人をけなすかの違いがあるだけで、中身は一緒だ。

第6章あたりを読んで再認識するのは、(自分を褒めている)この主張は、当人がいかに運がいい環境にいるか(これまで居続けてきたか)をあまりにも無視しすぎているということだ。口には出さなくても、そういう人は大なり小なり野宿者自業自得論主義者である。もちろん本当にサボリ症の人もいるだろう。でも同じくらいサボリ症の人が富裕層の中にいないとは全く言えない。

この本にもあるように、何事もパイの分け前は限られているのである。仮に能力もやる気も同じ人間が2人いたとして、1つの椅子を巡って椅子取りゲームをしたら、(同じだけの努力をするにも関わらず)確実に1人は負ける。そして勝った事実が好循環を生んで努力が報われる流れを作り、負けた事実が悪循環を生んで努力が報われない流れを作る。

そもそも、パイをとるのに有利な条件は当人が生まれた家庭環境によってその大半が決まっている。両親(とその収入)が決まり、遺伝子と(言語や法を含めた広い意味での)生活環境が決まり、通う学校の候補が絞り込まれ、友達の候補が絞り込まれる。そうした巨大な基盤の上に築かれた自分が「最初から自らの力で存在する」ものと考え、その自分が努力するのは自分に気概があるからだという。冗談じゃない、「気概がある自分」に育ったその道筋を与えられれば大半の人は努力できる。

人間の一生は精子と卵子の相互作用から始まって、生まれてからは外部環境との相互作用が延々と続いていく。今あなたの目の前にいるあの人が何やら動き回り何事かしゃべっているのだって、外部環境との相互作用に過ぎない。その言動が気にくわないからといって彼が悪いわけじゃない。もしあなたが彼と同じ人生経験を経て現在の彼と同じ環境におかれたら、違う言動をする自信はないだろう。

もちろん、個別の言動に対して「彼が悪い」と言う事はできるが、あなたにとって気にくわないことをたくさん言う傾向自体は必ずしも彼の意思で自由になるものではない。だから、あなたが自分の「特定の分野でよく失敗をする傾向」を指して「これは私のこれまでの生活環境のせいなのです」と言うこともある意味で正しい。
(※自分で自分の傾向を見抜いているならそれは避けられるはずだから、実際上はこの論法の対象に自分は含まれない。しかし不適材不適所にもかかわらず命令で仕事をやらされているような場合には自分に対しても正論になりうるだろう)

他人をこのような視点で見ることができない人は、その人の傾向を「意図的な行為の集合」として受け取ってしまう。傾向が気にくわないものであれば、「生理的に受け付けない」という拡大解釈によって拒絶を正当化する。一方、傾向が気に召すものであれば、その人がどうやってその傾向を身につけたかというプロセスに目を向けず盲目的に崇拝あるいは信用し、たまに期待を裏切られた折には反作用でひどく衝撃を受ける。どちらにしろ迷惑な話だ。

私たちは理由もなく上手くいくこともあれば、その逆もある。少なくとも、上手くいく理由や上手くいかない理由を説明することはとても難しくて、実際上不可能と言っていいケースだって(私たちの想像を遥かに超えて)ありふれているだろう。
もし自分が成功者だと思ったら、的はずれな成功の法則発見なんかしている暇にその境遇に感謝してみたらどうかと思う。