新年あけましておめでとうございます。ブログのタイトルを、暑いから寒いにしてみました。
今年はもうちょっと頑張って更新しよう。ということでまず実家(三田@兵庫)に持ち込んだThinkPad(去年2万円で中古購入)にarch linuxをインストールした記録から。
- colinuxとは:
http://goo.gl/ShFBV とかにあるとおり、linuxのエミュレータ。昔はCygwinとかあったけど今はもうcolinuxでしょう。VMwareは設定が簡単だけど動作が重い、モバイルPCでは使えない。
- colinuxのインストール:
http://dqn.sakusakutto.jp/2011/07/colinux-manual.html このへんを見ながら本体と7zipをインストールする。c:\colinux にインストールしたと仮定。
※バージョンは0.7.9(2011-04-09)
- OSのイメージファイルを取得する:
http://goo.gl/DTmE このへんから好きなやつをDLする。今回は軽さ重視で、Arch Linux。
- Arch Linuxとは:
http://ja.wikipedia.org/wiki/Arch_Linux こんなやつ。
- Arch Linuxのインストール:
http://goo.gl/N4ypF からArchLinux 2011.08.15(2011-11-27 modified)をDL、解凍、c:\colinuxに展開。
- まずはいじってみる:
arch.cmd が起動バッチになっている。DOSプロンプトからこれを実行(arch.cmd arch)。
ユーザーrootでログイン。ネットーワーク(wifi)も問題なくつながる。
- rubyのインストール:
とりあえず何かインストールしたい、ということで。http://goo.gl/eznSs を参考にpacman -Sy。
あとはpacman -S rubyなどと。
問題なく入る。ruby 1.9.3p0 (2011-10-30 revision 33570) [i686-linux]
- ディスクの拡張:
スワップ領域が少ない。ディスク領域もほとんどない、ので新しいイメージを用意する。
colinux tips(http://goo.gl/WgByo)を参考に。
プロンプトから以下を実行(c:\colinuxで作業)。
fsutil file createnew swap.img 134217728
arch.cmdをエディタで開いて、13行目あたりの記述を修正する。
set SW_ARCH=swap.img
※これが・・・100行目あたり、:_install の項目にあるcolinux-daemon -t ntという起動コマンドのパラメータに渡っていく、ちょっと見てみよう。
- スワップ領域を有効にする
まずcolinuxを終了させ、arch.cmd arch で再起動。mkswap /dev/hda2 としてフォーマット。
swapon /dev/hda2 として無事スワップの使用が開始された(freeコマンドを叩いてみよう)。
※再起動前に、下記にあるkeymap設定もしておくとよい。
http://goo.gl/yiCLX
http://goo.gl/r8XFg
- ディスクの拡張:
スワップと同じ要領でデカいファイルを作る(下記は2G)。
fsutil file createnew arch_fs.img 2146435072
colinux tipsの「colinuxのディスクがいっぱいになってしまった。拡張したい。」(http://goo.gl/WgByo)
にある通り、colinuxの起動パラメータに hda3=arch_fs.img を追加して再起動。
※arch.cmd 112行目あたり↓
colinux-daemon -t nt mem=%MEM% kernel=vmlinux initrd=initrd.gz hda1=%FS% hda2=%SW% hda3=arch_fs.img cofs1=c:\ root=/dev/hda1 eth0=slirp,,tcp:8022:22/tcp:3000:3000
※ちなみにtcp:8022:22/tcp:3000:3000のとこは、windowsの8022ポートへのアクセスをcolinux(10.0.2.x?)の22へ、3000を3000へフォワードする意味。なのでsshdを立ち上げておけばputtyとかから127.0.0.1:8022へアクセスできるし、railsとかnode.jsのテストサーバを10.0.2.x:3000で立ち上げておけばhttp://localhost:3000/でつながる。
再起動後、フォーマット。/mntにマウント。cp -a でコピー。アンマウント。あとはこれをhda1として起動するだけ。
※colinux tipsの記述とは少し違うコマンドになった。
cp -a /bin /boot /dev /etc /home /srv /run /media /lib /opt /root /sbin /usr /var /mnt/
再びarch.cmd編集。6~8行目あたり。
set FN_ARCH=arch_fs.img
set FS_ARCH=arch_fs.img
先ほど追加したhda3=arch_fs.imgをトル。これで準備完了、あとは再起動すれば拡張されている(df -hで確認しよう)。
- その他参考資料
ネットワーク設定
JSの設定
2012年1月2日月曜日
2011年9月25日日曜日
非現実の楽しさ
社会人になってゲームをする時間がめっきり減ったけど、ゲームして何になるって思うようになったら寂しいよなと思う。
どんな非現実的なことに価値を見出すにしてもそれは現実的な身体に立脚するわけだから現実をケアしないわけにいかないが、例えばお互いよく知ってる小説の細かい内容について(はたから見ればマニアックな)話をしている時の楽しさを想像してみよう。その楽しさには明らかに、共有の楽しさ以外に非現実の楽しさが含まれる。
自分の考え方に明快なオリジナリティを求める限り、非現実に思いを馳せない手はない。オリジナリティという言葉だと控えめ過ぎるかもしれない、はっきり言えば精神的自由のことだ。我々はたまたまこの時代に生まれた。このあたりを支配する物理法則や文化的背景や育ってきた家庭環境が、一人一人の考え方を強く制限づける。もし生きるためにどうすればいいかだけ考えようとすれば、もともと似たような制限を受けている我々の考え方はさらに似通ったものになる。だからコミュニケーションが可能なのだとも言えるし、だから大して自由なんかないのだとも言える。
自由はオリジナリティに関係がある。なんでかというと、自由に考えた2人が同じことを思い浮かべる可能性は低いから。また自由は非現実に関係がある。現実はただ1つしかないので、自由に考えた世界が現実に帰着する可能性は低いから。なのでオリジナリティは非現実と関係がある。
自由を求めて非現実な世界に入る人の多くは、その世界の出来事について誰かと話をしたいという矛盾したことを考えている。その世界が日常的な感覚から乖離した自由な世界であればあるほど、日常会話は使えなくなるというのに。囲碁では石が呼吸する、陣をとる、死ぬ、生きるなどの日常会話もどきが出てくるが、これは非現実世界で現実的な言葉を使ったコミュニケーションをしたいという要求に「比喩」を使って答えた一つの例である。いやこの言い方は正しくなくて、そもそも囲碁というゲームの原型を作るときにその作者が自由すぎる発想をしなかったから比喩が使いやすい世界になったのだろう。
物理学が一般的に理解しにくい理由はこの逆だ。話を簡単にするために神様を登場させるが、神様はこの世界(を構成する物理法則)を作るときに自由すぎる発想をしたから比喩が効かないのだ。いやひょっとしたら神様は前に似たような世界を作ったことがあって、神様にとってはその世界の言葉でこの世界のルールを喩えることができるのかもしれないが。それにしたってその比喩は、(神様が一人である限り)誰かとコミュニケーションするために利用することはできない。
我々はある意味で、自由を求めて孤独な神様になりたい。よくできた、オリジナリティある世界を作りたい。でも一方でその世界に誰かを連れていきたい、もしくは誰かが作った共感できる世界に連れて行ってもらいたい。しかも2人では寂しい、なるべくたくさん。孤独になりたいのかなりたくないのか、よく分からない。
非現実世界でコミュニケーションをするとそもそも何が満足なのか考えてみたい。この場合のコミュニケーションは生活のために必須なものではないので、それが満たされないからといって現実的に困ることはないはずだ。単に基本的欲求が非現実世界でも顔を出すだけなら、それは比喩と同様に「自由すぎる世界を理解するための」便利な道具に過ぎない。でも、ひょっとしたらそうなのか。人間は後天的に世界のことを理解する。狼に育てられた少女の話じゃないが、コミュニケーションの相手が変われば世界に対する理解も変わるだろう。
懐中電灯がないと見えない洞窟があり、光の種類によって浮かび上がってくる像がまるで違って見えるなら、洞窟のあり方は懐中電灯がなければ規定することができない。繰り返しになるが、お互いよく知ってる小説の細かい内容について話をしている時の楽しさには非現実の楽しさが含まれる。非現実の楽しさについて考えてしまうのは、現代には洞窟らしきものがなくなってしまったからかもしれない。現実が誰も知らない洞窟だらけなら、そこへ懐中電灯を連れて探検にいけばいいだけだ。
自由とは要は探検ができる、その地のことが分かる、そこで暮らせるということなのかもしれない。だとしたら我々は別に、矛盾する欲求を持っていたわけじゃなさそうだ。小さい頃、友達を誘って秘密の基地に出かけた。裏山の、周囲から視界を遮られた窪地みたいな場所で、「秘密」だから自分たち以外の人には来てほしくなかった。ある程度孤独になって秘密の世界を楽しみたかったのだ。もし秘密基地を独り占めすれば、秘密の量がぐっと減ってしまう。なぜなら、その場所で友達と遊んだその体験も秘密に含まれるからだ。
探検は、ある程度秘密で行われなければならない。みんなでドヤドヤ出かける探検隊など見たことがないが、ある程度メンバーが多い探検隊は存在するだろう。作ろうとする非現実の「現実からの乖離度」は、どんなメンバーを自分の探検隊に加えたいかによって決定することになる(現実と大きく異なる世界の出来事を言い表す言葉は現実の言い回しとだいぶ異なっており、それらの語彙を自在に使いこなせる人は少なくなる)。まぁ基本的には、自分が楽しめる非現実を作っておけば気の合う仲間が寄ってくるんじゃないだろうか。
どんな非現実的なことに価値を見出すにしてもそれは現実的な身体に立脚するわけだから現実をケアしないわけにいかないが、例えばお互いよく知ってる小説の細かい内容について(はたから見ればマニアックな)話をしている時の楽しさを想像してみよう。その楽しさには明らかに、共有の楽しさ以外に非現実の楽しさが含まれる。
自分の考え方に明快なオリジナリティを求める限り、非現実に思いを馳せない手はない。オリジナリティという言葉だと控えめ過ぎるかもしれない、はっきり言えば精神的自由のことだ。我々はたまたまこの時代に生まれた。このあたりを支配する物理法則や文化的背景や育ってきた家庭環境が、一人一人の考え方を強く制限づける。もし生きるためにどうすればいいかだけ考えようとすれば、もともと似たような制限を受けている我々の考え方はさらに似通ったものになる。だからコミュニケーションが可能なのだとも言えるし、だから大して自由なんかないのだとも言える。
自由はオリジナリティに関係がある。なんでかというと、自由に考えた2人が同じことを思い浮かべる可能性は低いから。また自由は非現実に関係がある。現実はただ1つしかないので、自由に考えた世界が現実に帰着する可能性は低いから。なのでオリジナリティは非現実と関係がある。
自由を求めて非現実な世界に入る人の多くは、その世界の出来事について誰かと話をしたいという矛盾したことを考えている。その世界が日常的な感覚から乖離した自由な世界であればあるほど、日常会話は使えなくなるというのに。囲碁では石が呼吸する、陣をとる、死ぬ、生きるなどの日常会話もどきが出てくるが、これは非現実世界で現実的な言葉を使ったコミュニケーションをしたいという要求に「比喩」を使って答えた一つの例である。いやこの言い方は正しくなくて、そもそも囲碁というゲームの原型を作るときにその作者が自由すぎる発想をしなかったから比喩が使いやすい世界になったのだろう。
物理学が一般的に理解しにくい理由はこの逆だ。話を簡単にするために神様を登場させるが、神様はこの世界(を構成する物理法則)を作るときに自由すぎる発想をしたから比喩が効かないのだ。いやひょっとしたら神様は前に似たような世界を作ったことがあって、神様にとってはその世界の言葉でこの世界のルールを喩えることができるのかもしれないが。それにしたってその比喩は、(神様が一人である限り)誰かとコミュニケーションするために利用することはできない。
我々はある意味で、自由を求めて孤独な神様になりたい。よくできた、オリジナリティある世界を作りたい。でも一方でその世界に誰かを連れていきたい、もしくは誰かが作った共感できる世界に連れて行ってもらいたい。しかも2人では寂しい、なるべくたくさん。孤独になりたいのかなりたくないのか、よく分からない。
非現実世界でコミュニケーションをするとそもそも何が満足なのか考えてみたい。この場合のコミュニケーションは生活のために必須なものではないので、それが満たされないからといって現実的に困ることはないはずだ。単に基本的欲求が非現実世界でも顔を出すだけなら、それは比喩と同様に「自由すぎる世界を理解するための」便利な道具に過ぎない。でも、ひょっとしたらそうなのか。人間は後天的に世界のことを理解する。狼に育てられた少女の話じゃないが、コミュニケーションの相手が変われば世界に対する理解も変わるだろう。
懐中電灯がないと見えない洞窟があり、光の種類によって浮かび上がってくる像がまるで違って見えるなら、洞窟のあり方は懐中電灯がなければ規定することができない。繰り返しになるが、お互いよく知ってる小説の細かい内容について話をしている時の楽しさには非現実の楽しさが含まれる。非現実の楽しさについて考えてしまうのは、現代には洞窟らしきものがなくなってしまったからかもしれない。現実が誰も知らない洞窟だらけなら、そこへ懐中電灯を連れて探検にいけばいいだけだ。
自由とは要は探検ができる、その地のことが分かる、そこで暮らせるということなのかもしれない。だとしたら我々は別に、矛盾する欲求を持っていたわけじゃなさそうだ。小さい頃、友達を誘って秘密の基地に出かけた。裏山の、周囲から視界を遮られた窪地みたいな場所で、「秘密」だから自分たち以外の人には来てほしくなかった。ある程度孤独になって秘密の世界を楽しみたかったのだ。もし秘密基地を独り占めすれば、秘密の量がぐっと減ってしまう。なぜなら、その場所で友達と遊んだその体験も秘密に含まれるからだ。
探検は、ある程度秘密で行われなければならない。みんなでドヤドヤ出かける探検隊など見たことがないが、ある程度メンバーが多い探検隊は存在するだろう。作ろうとする非現実の「現実からの乖離度」は、どんなメンバーを自分の探検隊に加えたいかによって決定することになる(現実と大きく異なる世界の出来事を言い表す言葉は現実の言い回しとだいぶ異なっており、それらの語彙を自在に使いこなせる人は少なくなる)。まぁ基本的には、自分が楽しめる非現実を作っておけば気の合う仲間が寄ってくるんじゃないだろうか。
2011年8月5日金曜日
元カノの主張
僕の意外な一面を見たときに、元カノが「目からウロコ」と言ったので「それ使い方ちがうよ」と言ったのだが、「意外で勉強になった時いうんなら合ってるやん」と言われうまく切り返すことができなかった。
なんだろう・・・合ってないと思うんだけど実は合ってるのか?(ーー;
しらべてみた。
そうか。なんか違うと思ったのは、原義のほうで考えていたからか。目からウロコ。
なんだろう・・・合ってないと思うんだけど実は合ってるのか?(ーー;
しらべてみた。
目からうろこが落ちるとは、何かがきっかけとなり、急に視野が開けて、物事の実態が理解できるようになることのたとえ。
キリストの奇跡により盲目の男の目が見えるようになったという、新約聖書『使徒行伝』第九章の「直ちに彼の目より鱗のごときもの落ちて見ることを得」から生まれた言葉である。
本来は、誤りを悟り迷いから覚める意味で使われていた
そうか。なんか違うと思ったのは、原義のほうで考えていたからか。目からウロコ。
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